Time Distortion
「ねえ、どうしてそんなに私に親切にしてくれるの?」
ラケシスは、何度もフィンにそう聞いた。しかし、フィンの答えはいつも同じだった。
「あなたの事を大切に思っているからです。」
「私は、あなたにとって一体何だったの?」
「大切な方でした。今でも、とても大切な方です。」
ラケシスはフィンから大切だと言われる度に、何かを思い出しそうになりながらも心の何処かで思い出してはいけないという気持ちが働いた。それを不思議に思いながらも考えることをやめるうち、ラケシスはフィンに同じ質問をすることさえやめてしまった。
フィンに質問をぶつけることをやめた代わりに、ラケシスはフィノーラに流れ着いてからの事を少しずつフィンに話すようになった。
気を失い、今にも落馬しそうになりながらも町外れに姿をあらわした女性を、町の人達は親切に介抱してくれた。目を覚ました時、自分の名前も覚えていなかった彼女に名前をつけて、仕事を世話して、暮らす場所まで提供してくれた。酒場での仕事は、最初は酔っ払いに絡まれたり力づくで彼女を自分のものにしようとする輩がいたりで大変だったけど、気がつくと町の人気者になっていた。
「さては、せまって来た男をあっさり返り討ちにしましたね?」
「どうしてわかるの?」
怯えてではなく怒って相手の頬を思いっきり引っぱたくと、相手は吹っ飛んで気絶してしまった。そのあまりの見事さに見ていた者はもちろんのこと引っぱたかれた本人でさえ恨むよりも感心してしまい、別の愚か者が数人同じ目にあったところで彼女に強引に迫る者は居なくなり、真面目に口説き落とそうとする輩ばかりになってしまったのである。
「そういうところは昔と変わっていないのですね。」
「私って、昔からそうだったの?」
「ええ。」
そう言ったきり、果たして昔何があったのかまでは話してくれないフィンにちょっと不満を覚えつつ、話は最近のことにまで進んだ。
「エルト兄様が迎えに来てくれたって喜んでたのに人違いだって言われるし、私にそっくりの女の子が傍にいるし、その女の子は私の事を「お母様」って呼ぶし。もう、何が何だかわからなくって…。」
それでも「エルト兄様」と離れたくなかったから昔住んでたというお城に一緒に行ったけど、全然懐かしさも感じなかったし他に思い出したことなんてなかった。何だか落ち着かない雰囲気の中で、フィンに手を差し伸べられた時嬉しいと思ったから今度はフィンについて来た。でも、やっぱり何も思い出せない。時々「エルト兄様」の姿が脳裏を掠めることはあっても、他の人の事はよくわからない。
「エルトシャン様の事で、他に何か思い出されたことはお有りですか?」
「兄様のことで? …兄様が居たって事しかわからないわ。ねえ、エルト兄様って私の本当のお兄様だったの?それとも、そう呼んで慕っていた人だったのかしら?」
ラケシスは不思議そうにしていた。
フィンは、エルトシャンとラケシスの血縁関係についてのみ正直に答えた。少女時代の彼女の気持ちについては答えようがなかったのである。ただ、とても仲が良かったことだけは言い添えておいた。
「そう、良かった。」
「良かった?」
フィンは、ラケシスの反応に驚いてついオウム返してしまった。
「わからないけど、そう思ったのよ。」
時に断片的に記憶が戻ったような言動をしながらも、ラケシスはフィンのことを思い出すことはなかった。
そんなある晩の事、フィンはラケシスの部屋から苦しそうな声がするのを耳にした。何だか誰かに呼ばれたような気がして廊下に出ると、ラケシスの部屋から声が聞こえて来たのだ。
「フィン…。」
そう聞こえて慌てて部屋へ飛び込むと、ラケシスがうなされていた。
「ラケシス、どうなさったんですか?」
「フィン…。」
「私は、ここにいますよ。」
「フィン…。」
フィンは揺すっても起きずにうなされ続けるラケシスの手をしっかりと握り、
「私はここにいます。」
と繰り返し耳もとに囁き続けた。
そのうちラケシスの呼吸が少し楽になって来たかと思うと、静かな寝息に変わる寸前、彼女の唇は
「フィン…ごめんなさい…。」
と言葉を紡いだ。
フィンは不思議だった。彼女は何を謝ることがあるのだろうか。この15年間にあるいは出会ってから今までに、こんなに苦しそうに謝るようなことを彼女はしたのだろうか。過去に何があったとしても、今こうして再会出来た喜び以上に重要なことなんてないのに。
「何があっても、私があなたを愛していることに変わりはありませんよ。」
そう、ラケシスがラケシスである限り、彼女を愛さずには居られなかった。彼女の唇に軽く口付けて、フィンはラケシスの寝室を後にした。
翌朝目を覚ましたラケシスは夜中の出来事を覚えてはいなかった。おかげで彼女が何をそんなに謝りたかったのかは謎のままとなってしまった。
そうこうしているうちに、だんだんうなされる夜が増えていった。
気がつくとほぼ毎晩うなされるようになり、本人もそのことに気付き、ついにはフィンが同じ部屋で休むようになった。
「フィン…ごめんなさい…。」
「ラケシス。そんなに謝らないで下さい。」
うなされる度に手を握って「気にするな」と囁くフィンにラケシスは謝罪を繰り返し、そして起きている時には何を謝っているのか解らないという日々が続いた。
そんなある日、フィンの元へリーフがやって来た。
「あ、何かがあったわけじゃないからね。ただ、様子を見に来たんだ。」
定期的に簡単な報告は受けてるしいろいろ様子を探らせたりはしているがやっぱりその目で見たかったというのが建て前で、こんなに長いことフィンと離れていることなんてなかったから寂しくなってしまったというのが本音である。
そして事情を聞いたリーフは、キュアンを彷佛とさせる口調でフィンにこう言った。
「今度ラケシス殿がうなされたら、「許す」と言ってやれ。」
「は?」
「いいな。謝罪の言葉を口にされたらすぐに「許す」って言うんだぞ。」
「…はい。」
フィンは良く解らなかったが、とにかくその晩ラケシスがまたうなされながら謝罪の言葉を口にした時、昼間のリーフの忠告に従って言ってみた。
「ラケシス、もういいんです。許しますよ。」
「フィン…愛してるわ…。」
何度かそう呟いた後、突然ラケシスが頭を押さえて苦しみ出した。
「ラケシスっ!しっかりして下さい。すぐ、すぐに医者を呼びますからっ!!」
慌てて部屋を飛び出そうとしたフィンの手を、ラケシスは取られていた手で握り返して止めた。
「フィン…。」
「ラケシス?」
「ここは…?何故あなたが…?」
「記憶が、戻ったのですか?」
逆に問い返すフィンをしばらくじっと見つめて、ラケシスは一人で何かを納得したような表情を浮かべた。
「私は…生き延びてしまったのね。」
ラケシスがそう呟いた次の瞬間、フィンはラケシスの頬を極軽く叩いた。
「記憶が戻っているならおわかりですね。2度とそんな言葉は口にしないよう言ったはずです。」
再会してバーハラの悲劇の事を語りながら同じセリフを吐いた時、フィンはラケシスを叱った。生きていることが罪悪であるようなことは2度と口にするな、と。それは自分に対する戒めの言葉でもあったのだ。キュアンの最期に伴できなかったことは今でもフィンの心を締め付ける。けれど、互いに生きていたからこそ再会出来たし、子供達を見守ることも出来た。生きているからこそ、過去を語ることもできるし、やり直すことも出来る。
「そうだったわね。」
記憶を失っていた頃の子供っぽい口調から、昔の口調にかわったことから見ても、どうやら本当に記憶が戻っているらしい。これだけ急に思い出すと逆に記憶を失っていた頃の事は忘れてしまうものだが、一応フィンはラケシスにずっと抱え続けた疑問をぶつけてみることにした。
「ところで、毎晩うなされる程私に謝りたかったことに心当たりはありますか?」
「毎晩?」
思い返して、ラケシスは辛そうな顔をした。
「あの、無理に思い出さなくても…。」
「いいえ、違うの。もう、思い出したの。そうよ、だから記憶を…。」
「言いたくなければ無理に言わなくてもいいんですよ。」
記憶を失う程の罪悪感を覚えさせるような出来事をわざわざ告白しなくても、もう自分は「許す」と言ったのだから。
「言うわ。そうしないと私は前へ進めない。」
デルムッドを迎えに行くと言って旅立って、同時にアレスに関する情報を集めながらイード砂漠に足を踏み入れたラケシスは、そこでダークマージとやり合ってボロボロになった。
全て返り討ちにしたものの、傷つき意識が遠のいた彼女の脳裏に浮かんだのは、これから迎えに行こうとする息子の事でも、残して来た娘や夫の事でもなく愛しかった兄の事だったのだ。
これでエルト兄様の元へ行ける。
しかし意識を手放す寸前に背を向けた兄の姿に、ショックを受けると同時にフィンの事を思い出した。生きなきゃと思った。一瞬でも、兄の元へ行けると喜んだ自分が許せず、フィンに申し訳ないという気持ちでいっぱいになった。そんな事を考えた自分を否定した。
そして意識を取り戻した時、全てを忘れ去っていた。強く自分自身を否定したことが、自らの記憶に封印を施したのである。
死んだはずのエルトシャンが目の前に現われたことで記憶の封印が綻びはじめたが、大切すぎる者に関する記憶になればなる程厳重に封じられていたのだろう。断片的に思い出す中で、子供の事もほんの僅かながらも思い出したにも関わらず、無意識の中で記憶を呼び覚ましながらも、意識のある時はフィンの事だけは全く思い出せなかった。
「ごめんなさい。」
「もういいんですよ。」
「許してくれるの?」
「ええ、許しますとも。」
自らの顔を覆っているラケシスの手を外し、彼女の身を自分の胸に引き寄せながらフィンは「おかえり、ラケシス。」と繰り返した。
そして、2人は再スタートを切ったのだった。
「そう。ナンナはアレスとアグストリアに…。」
「ええ。でもリーフ様は未だにナンナのことが忘れられないらしくて…。」
「リーフ様らしいわね。」
寝物語に子供達の戦いぶりや恋模様をフィンから聞き出して、ラケシスはいろいろ批評を楽しんだ。
記憶を急激に取り戻したことで、再会したナンナ達の事はすっかり忘れてしまったから、あの幼かった子供達が成長して自らの意思で掴み取った幸せを喜ぶと同時に簡単には実感が湧かなくて戸惑った。しかし、それを話すフィンの声に見守り続けた者の想いを感じて、話を聞いているだけで心地よかった。
「でも、それではこの国の未来が不安ではなくて?」
「心配ありませんよ。リーフ様は、もし御自分がお子を持たぬまま生涯を閉じられた時はアルテナ様か先年お生まれになられたアルテナ様のお子さまに王位を譲られるそうです。」
この話には、ラケシスは驚いた。
「生きてらしたの? イード砂漠で行方知れずになられたあのアルテナさまが…。」
「あなただって生きているのだから、そんなに驚くことはないでしょう?」
「それは、そうだけど…。でも、アルテナ様の旦那様ってどちらの方なの?」
子供がいるとなれば、当然聞かずにはいられないだろう。
「アリオーン様です。旧トラキアの王子の。」
「政略結婚?ああ、あなた達がついててそれはないわね。」
「ええ、そんなことはさせません。」
ラケシスは安心して、他の子供達の動向についての話をねだった。
デルムッドが元はアレスの彼女と目されていた踊り子と一緒にアグストリアでアレス達を手伝っているという話には他人事のように笑った。
「誰が一番苦労を背負い込むのかしらね?」
そして、セリスが独身だという話の方をより心配し、ついでにオイフェの変わり様に面喰らった。
「でも、あなたは昔のままだわ。」
「そうですか? 出会った頃よりは大人びたと思いますけど…。」
「確かに出会った時の少年のままではないけれど、あの町外れで私を見送ってくれた時とは変わっていないわ。」
「そう言うあなたは、出会った頃のままですね。とても私と同い年とは…。」
枕になっていた腕をラケシスに抓られて、フィンは途中で言葉を止めた。
「フィン〜、あなた何時からそんな失礼な口がきけるようになったの?」
ある程度過ぎたら女性に歳の話は禁物でしょう?レディーに対する礼儀を忘れるなんて騎士失格よ、とラケシスは指先に力を込めた。
「すみません。ただ私は、あなたはいつまでも若く美しいままだと言いたかっただけで…。」
「うふふ、そういうことなら許して差し上げますわ。」
フィンの必死の言い訳に、ラケシスはフィンの腕を抓っていた手を放した。
「痛かった?」
「…はい。」
「では、お薬代わりに良いことを教えてあげます。」
ラケシスはフィンの耳もとに口を寄せると、そっと秘密を打ち明けた。
私がいつまでも若く美しくいられるのは、あなたにその姿を見てもらいたいからよ♪
そう、例え記憶を失っていた時でもその信念だけは忘れていなかった。
「嬉しい限りですね。」
フィンは改めてラケシスを抱き寄せた。