Time Distortion

フィンの元へその知らせが届いたのは、事の起こりから有に半月は過ぎてからの事だった。
半月ほど前にフィノーラの城下町でラケシスと思しき女性が見つかったからノディオン城までフィンに迎えに来て欲しい、とアレスとナンナの連名でレンスター城のリーフとフィンの元へそれぞれ手紙が届いたのだ。
リーフは手放しに喜んですぐに迎えに行くようフィンを促したが、フィンはその文面に疑念を感じた。何度読み返しても、ラケシスを見つけたとは書かれていないし、しかもフィノーラと言えばイード砂漠のオアシス的な位置にあるあの城のことだ。何故、そこで見つかった時に知らせを寄越さずに、アグストリアに連れて行って半月も経ってからフィンに迎えに来るよう言って来たのか、どうにも解せなかった。
しかし、どれ程疑問があろうとも手紙のサインは確かにアレスとナンナの直筆だったし、文面はナンナの手によるものだし、リーフからは直ちに迎えに行くようにと繰り返されるし、何よりも本当にその女性がラケシスであるならばすぐに迎えに行ってやりたかった。国が安定し、しばらくリーフの傍を離れても何とかなる今なら、フィンがラケシスを迎えに行くことに枷となるものはなかった。
逸る気持ちを押さえながら万全の支度を整えて、フィンはアグストリアまで愛馬を駆けさせた。
そしてノディオン城でラケシスと再会したフィンは、ナンナ達があんな妙な文面の手紙を寄越した理由を知った。ラケシスは重度の記憶障害を抱えていたのである。

アレス達がラケシスのことを知ったのは、フィンに手紙を出す半月以上前の事だった。
突然デルムッドが執務室に駆け込んで来たのだ。
「アレス様。昨日、ナンナと城下へ遊びに行かれましたね!?」
部屋へ飛び込んでくるなりちょっとした息抜きを責めるように問いつめるデルムッドに、今はちゃんと仕事してるんだからいいじゃないか、とムッとしたアレスだったが、彼の様子がおかしいことに気付きとりあえず素直に頷いてみた。
「その時ナンナの顔を見た行商人が、そっくりの女性をフィノーラの酒場で見たと言っていたのをリーンが聞いて来たんです。」
リーンは元踊り子の特技を武器に頻繁に城下の酒場や広場で各地の情報を集めて回っているのだが、昨日も広場で踊りながら行商人が話しているのを耳にして来たのだ。フィノーラの酒場で人気者の女性がナンナにそっくりだと。
「フィノーラって、確かイード砂漠にあるんだったよな?」
「ええ、母上が行方不明になったあのイード砂漠です!」
デルムッドを迎えに行くと言ってラケシスが消息を絶った場所の近くにいるナンナそっくりの女性。他人のそら似ということだって全く無いとは言えないが、その女性がラケシスである可能性は高い、というのがデルムッドの何時にない慌てぶりの背景だった。
「しかし、それが本当に叔母上なら何故今でもフィノーラに居て、しかもお前達や叔父上に手紙1本寄越さないんだ?」
あの聖戦は世界規模で注目の的だった。その後各地がどう管理されていったか、何処の誰が指導者になったのか、自分が住んでる国はもちろんのこと他国の指導者の名前や出身だって知らないのはよっぽど幼いか情報から隔てられた人間くらいである。酒場で働いているとなると、各地の情報を耳にしないわけがない。ああいう場所は情報収集にはもってこいの場所で、だからこそリーンはベールで顔を隠してまで酒場通いをやめようとはしないのだから。
「それが、15年前にフィノーラに流れ着いた時には記憶を失っていたとか…。自分の名前も良く覚えていなかったらしくて、「ラス」って呼ばれてるらしいです。」
「なるほどな。それじゃぁ、確かめに行ってみよう。」
言うなりスタスタと部屋を出て行くアレスにデルムッドは追い縋った。
「行く、ってアレス様が行かれるおつもりなんですか?」
「俺とナンナで確かめに行く。留守番は頼むぞ。」
頼むぞと言われてあっさり承諾出来るような頼みごとではないのだが、言っても聞かないことは良く解っていたし、何よりも2人で行くと言った理由があまりにも説得力があったので、デルムッドは留守番を引き受けてしまった。
そう、アレスは自分達2人が実に適任と納得させるだけの理由を用意していたのである。
その女性の記憶障害がどれほどのものかは判らない。それが本当にラケシスだったとしても、しかし何も覚えていなかった場合、会いに来たと言ったところですんなり会わせてもらえる保証はない。しかし、そっくりだというナンナが、
「行方不明の母かも知れないと思って会いに来ました。」
と言えば、まず会わせてもらえるだろう。
アレスが一緒に行くのは、ナンナの護衛を他の者に任せたくないと言う感情的な部分がないわけではないが、それを除いても一緒に行くだけの理由があった。アレスはエルトシャンにそっくりなのだ。エルトシャンはラケシスにとって半端ではない存在である。例え記憶を失ったとしても、全く忘れ去ってしまえる程簡単なものではないはずだ。
だからアレスは、本当ならレンスターに連絡してフィンも一緒にと考えないではなかったが、もしもその女性がラケシスではなかった場合ぬか喜びさせてしまうことを思うと、自分達が確認してから連絡した方がいいだろうと、ナンナと2人で旅立って行った。

アレスの思っていた通り、名前を言っただけではその女性と会わせてもらうことは出来なかったが、ナンナの言葉であっさりと対面が叶った。
「お母様!」
「叔母上!」
顔を見るなり呼び掛けた2人を見つめていた女性は、
「…エルト兄様?」
と呟くと気を失ってしまった。
「どうやら、叔母上に間違いないな。」
「今のセリフは間違いようがないわね。」
世の中広しと言えど、アレスの顔を見て「エルト兄さま」と呟く女性はラケシス以外にいないだろう。
「早速叔父上に連絡を取ろう。」
そう言って、その夜フィン宛の手紙を書き上げたアレスとナンナだったが、翌朝目を覚ましたラケシスの様子に、その手紙を出すことを断念せざるを得なかった。ラケシスは精神年令が後退し、エルトシャンという兄がいたことのみ漠然と思い出しながらも他の事はまったく思い出せず、アレスに懐きまくったのだ。2人はこの女性がラケシスであることを疑いようもなく再認識させられたが、こんな状況でフィンを呼び出すことは出来なくなってしまった。
「とりあえず、俺を父上と勘違いしているとは言え少しは思い出したのだから、ノディオンに連れて行けば、また何か思い出すのではないか?」
「そうね。連れて帰りましょう。」
酒場の親父や常連客は、人気者を連れ去られることに多少の不満を覚えなくはなかったが、生き別れの肉親と再会出来たのを喜べない程心の狭い人間はそこには居なかった。
アレスと離れたがらないラケシスをアレスが自分の馬に同乗させる時、ナンナは軽い胸の痛みを覚えはしたが、アレスの馬の方が大きいし、技量的にもアレスの方が乗馬の腕は遥かに信用がおけるのだからと自分を納得させて帰り道では気持ちを押さえ続けた。しかし、ノディオン城に着いてからもアレスから離れようとしないラケシスに、ナンナはだんだん腹が立って来た。
やっと再会出来た母に対する態度に妙な刺を感じさせるナンナに疑念を抱いたデルムッドが理由を問いただしても、
「何だか解らないけど、いらつくのよっ!!」
と言うだけでまったく埒があかなかった。代理決済で済むものはデルムッドが処理しておいてくれたとは言え、留守にしてる間に溜まった書類と格闘するアレスにはラケシスはおろかナンナと過ごす時間さえ殆どなかったので、ナンナの様子がおかしいことにアレスが気付いたのは、数日後の事だった。
「どうかしたのか? 最近、やけにピリピリしているようだが…。」
「ええ、どうせ私は怒りっぽいわよっ!!」
普段なら「何よ、それ?」って返ってくるはずなのに、ナンナは突然火が付いたように怒り出した。そして、落ち着かせようと肩に置こうとしたアレスの手を叩き、そのまま拳を振り回し、ところ構わずアレスをポカポカと殴りながら泣き出した。
「アレスの莫迦っ! 何日も私のこと放っぽって。お母様と私のどっちが大切なのよ!?」
言われるまでもなく、アレスにとって大切なのはナンナなのだが、彼女を何日か放ったらかしにしていたことは事実なので、アレスはしばらくナンナの好きにさせておいた。
「何で黙ってるのよっ!?」
「言わなきゃわからないのか?」
無抵抗にナンナに殴られながら紡がれた言葉に、ナンナは手を止めた。そしてその手で顔を覆って本格的に泣き出した。
「わからなくなんてない。でも、嫌なの。誰かがアレスにベタベタするのもだけど、お母様がお父様以外の男の人にベタベタするのはもっと嫌。」
記憶がないのだから、唯一の記憶がエルトシャンの存在なのだからと必死に言い聞かせても、ナンナはどうしても感情を押さえきれなかった。
「叔母上をここへ連れて来たのは間違いだったかも知れないな。」
「えっ?」
「俺を見て父上の事を思い出したように、もしかして叔父上を見たら…。」
「思い出してくれるかしら? だって、あなたはお母様が覚えているはずの伯父様の姿とそっくりらしいけど、お父様はあれから歳を重ねてるのよ。」
ラケシスが最後にエルトシャンを見た時より、今のアレスは幾つか若い程度である。しかし、フィンと別れてから15年。その歳月は多少なりとも2人の容貌に変化をもたらしてしまっているだろう。
「旅立つ前の叔母上が見た姿とそんなに大きく変わってしまったのか?」
アレスはナンナと比べると確かに歳をとってはいるようだと認識出来るものの、実年齢より遥かに若く見えるラケシスを見る限り、同様にして実年齢より若く見えるフィンだって15年前から大して変わってないんじゃないかと思えた。
「15年前のお父様の姿なんて、殆ど覚えてないわ。」
「とにかく、このまま黙っているのも問題だし、叔父上に来てもらおう。」
そして2人は連名でレンスターへ手紙を書いたのである。

しかし2人の期待は虚しく、フィンを見たラケシスは何も思い出さなかった。
ただ、警戒もしなかった。城で働く者やリーンはもちろんのこと、実子であるデルムッドやナンナでさえ、不用意に近付くと緊張した様子を見せたのに、
「ラケシス。」
と呼び掛けてフィンが差し伸べた手に、躊躇いもなく自らの手を預けたのである。
「ラケシスをレンスターに連れて帰ります。」
「いいのか、叔父上?」
自分で呼び出しておきながらも心配そうに問いかけるアレスに、フィンは柔らかな微笑みを浮かべた。
「例え何も覚えていなくても、ラケシスであることに変わりはありません。私の傍にいることを嫌がらないだけでも一緒にいる意味はあります。それに、今の彼女がここにいることは誰のためにもならないでしょう?」
アレスをめぐるナンナとラケシスのことを言っているのである。
「読まれてるなぁ。」
今頃になってフィンを呼び出した直接的な原因を、あっさり見抜かれてしまった。
「レンスターへ帰って、もう一度やり直します。思い出してもらえないなら、これから先の人生に想い出を刻んでもらえばいいんですよ。」
こともなげに言ってラケシスを連れて帰って行ったフィンを見送って、その場に残された者達は、果たして自分達はああいう立場になった時同じことをさらっと言ってのけることが出来るだろうか、と考えさせられた。

レンスターへ戻ったフィンは、リーフの元へ帰着の挨拶に赴き事情を説明した。
「なるほど。だから、あんな変な文面だったんだ。」
「リーフ様。変だと思いながら、あんなに喜んでさっさと迎えに行けと仰ったんですか?」
一国の王たるもの、物事は慎重に対処すべしといつも周りからうるさく言われているのに。
「だって、どんなに変でもナンナの直筆だもの。ならば私は、例え「アレスが子猫を産んだから見に来て下さい」と書かれていても飛んで行くよ。」
「リーフ様…。」
フィンが呆れていると、横から笑い声が響いた。
「おほほほ、さすがはリーフ様。一途ですわね。」
見ると、ラケシスが高笑いしている。
「ラケシス、思い出したのか?」
「えっ? 私、今何か言った?」
どうやら、思い出したわけではないらしいが、完全に忘れてしまっているわけでもないらしいと、リーフとフィンは首を捻った。
「あの、リーフ様。ラケシスがこんな調子なので、しばらく傍にいてやりたいのですが…。」
「いいよ。お前が言い出さないなら命令してでもそうさせようと思ってたから。」
何かあったら連絡するから勝手に遠くへは行かないでね、という条件の元でフィンはあっさり無期限の休暇を貰ってしまった。
それから毎日、フィンはラケシスをいろいろな場所へ案内した。
あのバーハラの悲劇の後、2人が再会した場所。リーフを匿いながら細々と暮らしていた小さな家の跡地。苦しい中で心に光を保たせてくれた、今尚美しく花が咲き誇る丘の上。そして、ラケシスを見送った町外れのあの場所。
しかし、その場所に連れて行くだけでそこがどういう場所なのかは話さなかった。それどころか、自分達が以前夫婦だったことも口にしようとはしなかった。そんなフィンの態度に、様子を探らせていたリーフはフィンが話さないでいることを勝手にラケシスに話したりしないよう彼等の過去を知っている者全員に口止めした。

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