第39話
山道の入り口で車を止めさせ、イシュタルは細く険しい道を上っていった。
だが既に日は落ち掛かっていた。それでもイシュタルは、ヴェルトマー家の別荘を目指して足早に暗い山道を歩いていった。
別荘に辿り着いてチャイムを鳴らすと、何とアルヴィスが応対に出た。この別荘で働いてる人間は多くはないからたまたま近くにいたアルヴィスが率先して戸口へ来たのだろう。
「イシュタル殿か。どうしたのだ、こんな時間に。それに今日は休日ではあるまい?」
「どうしても今日、ユリウス様にお渡ししたいものがありまして…。」
「ユリウスに…?」
アルヴィスは、イシュタルの抱えている袋を受け取ろうと手を伸ばした。反射的に身を引いてしまったイシュタルは、失礼なことをしてしまったと自責の念にかられたが、どうしても自分の手で直に渡したい旨をうったえた。
イシュタルがユリウスの部屋に招き入れられると、そこではユリウスが絨毯の上にぺたりと座って本を読んでいた。イシュタルはそっと斜め向かいに座り、ユリウスに声を掛けた。
「ユリウス様。今日はバレンタインデーなんです。」
「バレンタイン…。」
抑揚の少ない声でユリウスが応じた。
「お口に合うかわかりませんが、どうかこの私の手作りチョコを受け取って下さい。」
ユリウスはイシュタルの手元を見た。
「ユリウス様の為に一生懸命作ったんです。」
「バレンタイン…手作り…僕の為…?」
どこか不思議そうな響きを含む声で、ユリウスは言葉を繰り返した。そして、箱の中から一粒摘んで口に入れた。
「ユリウス様。私は、昔も今もユリウス様のことを心から愛しております。」
それは解呪の魔法だったのかも知れない。今まで微かな笑顔しか浮かべなかったユリウスの目から、涙が溢れたのだ。
「ユリウス様っ!そんな…泣く程まずかったんですか!?」
ユリウスは慌てて首を横に振った。
「あれ? 何で涙が出てるんだろう?」
まるで、心を凍らせていた氷が溶けて流れ出したように溢れる涙と共に、ユリウスに感情が戻りはじめていた。今までとは比べ物にならない程自然な口調で言葉を紡いだ後、手の甲で涙をぬぐい去ってイシュタルに向けた微笑みはとても優しく穏やかで、そして深みがあった。
間もなく夕食に呼ばれ、ユリウスはイシュタルのチョコをしっかりと抱えて食堂へ向かった。
「どうしたのだ、その箱は?」
大切そうに箱を抱えてるユリウスを見て、アルヴィスが声を掛けた。
「イシュタルから貰ったんです。」
やや堅いながらも嬉しそうに答えるユリウスの様子を不思議に思いながらも、アルヴィスは箱の中身を見せるように促した。
「ほぅ、チョコレートか…。」
そう呟くと、2人が止める間もなくアルヴィスは一粒摘んで口に入れてしまった。
彼は今日がバレンタインデーであることを知らなかったのだ。ここへ隠遁して以来、日にち感覚というものが全くなくなっていた。ユリウスを迎えに行く時も、イシュタルから「明日、私もお迎えに参ります」と連絡が入るまで迎えに行く日を失念していた。最近は、彼女が週末になるとやってくるから曜日感覚だけは感じられるようになったが、何月何日なのかという感覚はなかった。
だから、これも単なる手土産だと思っていた。まさかこれがイシュタルの言った「どうしても直に渡したいもの」だったとは思わなかったのである。そして、気軽に食べて顔をしかめた。
「何だ、これは? こんなものを平気で売ってる店があるのか?」
イシュタルの表情に陰が走った。その時、思いも掛けないことが起きた。
「あんまりではないですか、父上! これはイシュタルが僕の為に一生懸命作ってくれたバレンタインチョコです。それを横取りした上に、そんなこと仰るなんてっ!!」
何と、ユリウスが流暢な言葉で表情豊かに激しく怒りの感情を表したのである。
「…ユリウス様。」
「泣くな、イシュタル。もう誰にも横取りなんかさせない。他の誰が何と言おうと、僕にはとっても美味しく感じられたんだ。」
イシュタルは涙が止まらなかった。ユリウスは懐からハンカチを差し出すと、そのまま指先で優しくイシュタルの涙を拭った。
「父上。早くイシュタルに謝って下さい。」
「あ、ああ。すまなかったな、イシュタル殿。」
イシュタルは、ユリウスから受け取ったハンカチで目元を押さえたまま、首を横に振った。
「イシュタル…。」
心配そうに覗き込むユリウスに、イシュタルは再び首を横に振ってみせる。
「イシュタル殿、本当にすまないことをした。」
「違うんです。ユリウス様が私の為に怒って下さったから…。」
あれ程感情が希薄だったユリウスが、激しい怒りを示した。そのことだけでも喜ばしいことなのに、それが自分の為だったことにイシュタルは感動した。
「僕…?」
ユリウスは自分の変化を自覚して戸惑いを覚えた。
「ユリウス様。もう、感情を表に出すことを恐れないで下さい。あなたは自由に怒ったり笑ったりしていいんですから…。」
まだ涙を止めきれないままイシュタルはユリウスに微笑みかけた。潤んだ瞳で見つめられてドキッとしたユリウスの肩に、アルヴィスはしっかりと手を置いた。