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アレスは何事もなかったかのような顔で出撃すると、コノート南の端を渡ったところで単身山向こうへの迂回路へ馬を進めた。それを見送ったナンナは、動揺を押し隠してリーフ達と共にマンスターへと向かう。
マンスターでセティと共に竜騎士を迎え撃ってからかなりの時間が経っても戻って来ないアレスの姿を求めて、ナンナは物見台に立っていた。
「何かあったのかしら…。」
平静を装ってはいたが、アレスはまだ手紙の衝撃から完全には立ち直っていないはずだ。あの自信家で、その自信を裏付けるだけの実力を有しているアレスでも、それによって生じた間隙を付かれたら…。彼の元には回復の杖を使える者はいないのだ。万一と言うこともあり得る。
「何、暗い顔してんの? アレス様のことが心配?」
パティがからかうように声を掛けて来たが、今のナンナはそれに対して怒り出すような真似は出来なかった。
「パティ…。」
泣きそうな顔で振り返るナンナに、パティは気まずそうな表情を浮かべた。
「アレスに何かあったらどうしたらいいの? 私、手紙を…。」
消え入りそうな声でナンナはパティに言うと、途中で言葉を途切れさせた。
「もしかして、まだ渡してないの?」
ナンナの顔を覗き込むようにしてパティが問いかけると、ナンナは首を横に振る。
「渡してしまったの。出立直前に…。」
それでどうしてナンナが嘆くのか、パティにはわからなかった。
「私、あの手紙の重さをわかってなかった。」
ナンナはそう言うと涙を零し、手で顔を覆って俯いた。
そんなやり取りを、なかなか降りて来ないナンナを心配してやって来たリーフやフィンも耳にする。
「手紙って、何の話ですか?」
リーフはパティの方に質問した。
パティはしばらく躊躇った後、事の次第を簡潔に話す。
「そのようなものが隠されていたとは…。」
フィンはナンナの腰の『大地の剣』に目をやりながら呟いた。
「それで、ナンナはどうして泣いてるんだい?」
渡せないままアレスに何かあったら心残りだと言うならともかく、渡せたならそれでいいじゃないか、とリーフも思った。
「手紙の内容については知っているのか?」
フィンの問いに、ナンナは首を横に振り掛けてから小さく頷いた。
「恐らくはシグルド様との友誼についても書かれていたのだろうとは思われましたが、詳しい内容までは…。ただ最後に、他人を恨むな、と書かれていたようです。」
震える声でそう言うと、ナンナはまた泣き出した。
ナンナは、帰って来ないアレスを心配しているのか責任を感じているのか。多分、両方だろうと思うリーフだったが、その心配の中に本人さえも気付いていない個人的な感情が含まれているような気がしてならなかった。
「他人を恨むな、と…。あの方らしいな。」
フィンがボソッと呟いた。
「エルトシャン様って、そういう方だったのか?」
「はい。エルトシャン様に限らず、キュアン様もシグルド様も…。どんな悪いことも他人の所為にはされない方々でした。」
リーフの問いにフィンは遠い目をして答える。
「恨むということは、悪いことを誰かの所為にすることでもあります。人に限らず、運命や不運を恨むのもまた然り。」
「…それは、アレス殿とセリス様の問題だけではなく、トラバントを恨む私に対しても言っているのか?」
リーフはフィンの言葉が耳に痛かった。
「いいえ、私は…。私にはそのようなことを申し上げる資格はございません。」
フィンは辛そうな顔でリーフを見た。
「トラバントを恨んでいるのは私も同じです。それどころか、キュアン様のお供をすることも叶わず、運命をそして留守居を命じられたキュアン様をも恨んだことさえ…。私は未だに、あの頃のキュアン様に追い付くことさえ出来ません。」
ナンナが泣き続けてる上にフィンまで落ち込んでしまって、リーフはどうして良いかわからずオロオロした。
しかし、パティは逞しかった。
「もしも〜し、皆で落ち込んでても仕方ないから、ひとまず下でお茶にでもしませんか〜?」
そう言うと、パティはナンナの手を取り芋づる式にリーフとフィンを従えて下へと降りて行った。そして、フィーに偵察ついでに様子を見て来てくれるよう頼んで、ひとまずナンナを落ち着かせたのだった。
ナンナの心配を他所に、出撃したアレスは普段と変わりなく戦っていた。
プライベートな動揺をいちいち戦場へ持ち込んでいたら、命が幾つあっても足りはしない。確かに傭兵となってからこれまでの中で一番ショックを受けた状態での出撃だったかも知れないが、とにかく今は賊を一掃して村を解放しマンスターまで行くことだけを考える。
「こんなことで死んだりしたら、あの世で父上や母上に何言われるか…。」
勿論、第一には死にたくないという気持ちがある。しかし万一の時でも、あの世の入り口をくぐるなり父に怒鳴られたり母に嘆かれたりするのは、ご免被りたいアレスだった。
大体、「恨むな」と言われて「はい、わかりました」と捨てられる程簡単なものではないし、頭で考えてどうなるものでもない。今のアレスは、せめてこれからは誰も恨まないように心掛けようという程度に受け止めておくだけにしておいた。とりあえず引き受けさせられてしまった任務をこなし、今後の身の振り方に付いて考えるのは後回しにする。改めてセリスの仲間になるか、もうしばらく観察者の立場を貫くか、それはマンスターに行ってからから決めても遅くはないはずだ。
そして村を解放したアレスは、マンスターに近付くに連れて馬足を鈍らせていった。
マンスターに着いてから、ということはマンスターに着いたら決めなくてはならないということだ。自分で時間に制約を付けてしまったアレスは、迫り来る締め切りを出来るだけ引き延ばそうとしていた。
それでも、馬は着実にマンスターまでの距離を縮めていった。普通の人でも肉眼で城が簡単に確認出来るところまで近付いて、アレスは覚悟を決めた。
「こんな半端な状態でいつまでも居られる訳ないな。」
恨みは消えていないが、セリスに協力した方が自分の為になるであろうことは確かだ。ノディオンを帝国や暗黒教団の手から奪い返すにしても、今は人手も民意も碌に得られないだろう。自分の目的の為に利用すると考えておけば、セリスの指揮下に入るのも我慢出来そうだし、それで何かが見えてくるかも知れない。父とシグルドのような友情を育めるとも育みたいとも思っていないが、まずは一歩くらい歩み寄ってみるのもいいだろう。
「それでいいですよね、父上?」
アレスは懐に仕舞った手紙に同意を求めるように鎧の上から胸に手をやると、マンスター城まで一気に馬を駆けさせた。