ユリウス
気がつくと一人になっていた。幼い頃、母や妹と楽しく遊んでいたような気がするのに、周りにはそんな影はなかった。
邸に飾られた母の絵姿は、記憶しているものと違っていた。赤い髪の、良く言えば凛とした、裏を返せば気の強そうな女性。記憶の彼方に映るのは、紫の髪の優しそうな姿だというのに。
そんな戸惑いを覚えて止まないユリウスの前に、ある時一人の女性が現われた。フリージ家のイシュタルである。親同士が決めた許嫁だという話だったが、そんなことは二人には関係なかった。お互い、親の情が薄く感じられているという共感もあってか、すぐに打ち解けた。
これまでユリウスの周りには友人と呼べる存在がなく、素直な気持ちを口に乗せることなど出来なかったが、イシュタルの前では素直になれた。それはイシュタルにしても同様だった。従妹のティニーの前では心を開けるにしても決して年相応の少女の夢を語ることなど出来はしなかったが、ユリウスにはそんなことも自然に話すことが出来た。
いつしか二人は周りの思惑と関係なく互いに相手を自分の半身とも思える存在とし、ユリウスはその幸せがいつまでも続くものだと信じるようになっていった。
ユリウスの幸せにケチが付き始めたのは、イシュタルが高等部に上がった頃だった。イシュタルの身にくっきりとトードの聖痕が現われたことが発覚したのだ。
神器の継承者となってしまっては、他家へ嫁ぐわけにはいかなくなるだろう。
かなり前から自覚していたイシュタルは、このことが知れたらユリウスとの婚約が破談になると思って隠し通してきた。しかし、ついに家の者にばれてしまったのだ。
だが、幸いにも婚約が破談になることはなかった。フリージ家としては、トールハンマーの使い手を一時期他家に預けることになってでも、ヴェルトマー本家との強い結びつきを望んだのだ。ヴェルトマーの名にはそれだけの影響力があった。
ユリウスは、自分が将来嫁せられる家名の重みを自覚した。そして、イシュタルと引き離されずに済むためにも、それを背負って立つための力を求めた。それに、自分が少しでも家の仕事を手伝えるようになれば、忙しくて滅多に顔を合わせることもない父に少しは振り向いてもらえるような気がしたのだ。
ユリウスは様々なことに意欲的に取り組んだ。もともと優秀だったユリウスは、目に見えてその優秀さを発揮した。邸の文献を読みあさり見識を広め、魔法の訓練を積んで力を付けていった。それにより、少し早いが家の仕事の一端に関わらせて今から将来に備えて経験を積ませるのも良いかも知れないとアルヴィスに思わせる程になった。
だが、それが親戚たちには面白くなかった。只でさえ可愛げのない子供がますます可愛げを無くし、自分達の立場を脅かしていく。そんな風に映った。
「妙な言い掛かりをつけるのは止めてもらおう!」
ある晩、ユリウスは珍しく声を荒げている父に気付いた。普段は怒りを表すのに声を荒げるのではなく背筋を凍らせるような響きを含んで言葉を発する父が、何をそんなに興奮しているのだろうと、こっそり影から覗いてみると、父の前には親戚が5人程立っていた。
「言い掛かりではなく事実でしょう。それとも、そのような事実はなかったと仰いますか?」
「確かに、ユリウスが生まれた時この邸にはその娘が居た。そして子供を産んだ。その部分は事実と認めよう。」
「ほぉ、お認めになりましたな。」
「だがユリウスは亡き妻が自らの命を賭して産み落とした子供だ!」
自分の事で彼等が言い争っていると知り、ユリウスはその場を動けなかった。
「しかし、証拠はありませんな。」
「そう、ユリウス様の身体にはファラの聖痕がありません。」
「ファラの血は継いでおられるようだが、あなたのお子さまならそれは当然の事。」
彼等は一体何を言わんとしているのだろう。自分の生まれにどんな問題があるのだろう。ユリウスは、聞き漏らさないように耳を澄ませた。
「だからと言って、ユリウスがその娘の産んだ子供だと言うのは下衆の勘ぐりというものだ。第一、その娘が産んだ子供は私の子ではない。」
僕が誰の子供だって?
「まぁ、お隠しになりたい気持ちはわかりますよ。種違いとは言え妹との間に子供を作ったとなっては、世間の目というものもありますからね。知らなかったじゃ済まない問題だ。」
「しかも、母君からロプトの遺伝子を継いでいたとなれば尚更のこと。」
「ユリウス様がロプトウスの依り代などと知れては、確かにまずいでしょうなぁ。」
ロプトウスの依り代という言葉にユリウスは打ちのめされた。それと同時に、過去の情景がはっきりと脳裏に浮かんだ。邸に掛けられた母の絵姿とは似ても似つかぬ女性に抱かれたり、遊んでもらってる自分ともう一人の子供。まるで双子のように仲良く遊ぶ自分達。この記憶が幼い頃に見た夢などではなく本当にあったことなのだとしたら、自分は本当にあの女性の子供なのではないだろうか。そんな考えで満たされたユリウスには、その後のアルヴィスの言葉は耳に入らなかった。
アルヴィスの反論に親戚達は一応納得した素振りを見せて帰って行ったにも関わらず、あの晩からそう長い時間をかけずに彼等は噂を振りまいた。あの秘密と引き換えに少し旨い汁を吸おうとしたのにアルヴィスに突っぱねられたので、逆恨みしたのだ。確かに全てが事実ではないにしても、疑いがあると言うだけでアルヴィスやユリウスに痛手を負わせることが出来る。そう判断した彼等は、断言するような言動を避けてあちこちに情報を流した。多少の痛手を負ったところで再び交渉を持ちかけようと思ったのか相手の女性についての詳しい情報は巧みに隠していたが、ユリウスについては完全に名指しだった。
アルヴィスは即座に情報を抑制し、同時に彼等に対し強かに反撃を加えてやった。彼等は再交渉で旨い汁を吸うどころか、その前に社会から抹殺された。
しかし、人の口にまで戸は立てられない。そして話が広まってしまえばそれは周知の事実と置き換えられるのに時間は掛からなかった。アルヴィスの立場は苦しくなり、その不利益を補うためにも忙しさが倍増した。その上、こんな話を耳にしたユリウスにどう接して良いのか戸惑ったアルヴィスは、彼と顔を合わせると何処かぎこちなさを感じさせた。そんなアルヴィスの姿はユリウスに誤解の種を植え付けるには充分過ぎた。
「言葉で警告しているうちに、私の前から消えなさい!」
夜中に路地裏でミニボトルを片手にだらだらしていたユリウスの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。声のした方に近付いて行くと、場違いな雰囲気を漂わせている人間が1人、如何にもチンピラ風の男3人に行く手を塞がれているのが垣間見えた。
「けっ、お高く止まってんじゃねえよ。」
そう言って男の一人が手をのばし、先程の声の主の腕を掴んだ。
「警告はしたわよ。」
腕を掴まれた者はそう呟くと、ヒールで相手の膝下を抉るように蹴った。そして相手が怯んだところでその顎を思いっきり蹴り上げた。
「このアマ、何しやがる!」
仲間があっさり気絶させられたのを見て襲い掛かろうとした残り二人の身体は感電したようになった。実際、弱い雷に打たれたのだ。
「イシュタルっ!!」
ユリウスは相手の正体を確信して声を掛けた。フードで顔を隠していても声でわかる。しかも、簡易詠唱でこれだけの正確さと絶妙の力加減でサンダーを放てる女性など他に居ようはずがない。
「ユリウス様♪」
やっとユリウスを見つけだせた喜びに、イシュタルの意識は目の前の男達からユリウスへ移った。それを見た男の一人が痺れる身体に鞭打って足元の木材を拾い、イシュタル目掛けて降り下ろした。
「危ないっ!!」
ユリウスの叫びにハッとなったイシュタルはとっさに左腕を上げて頭をかばった。男はすぐに背中に大火傷を負うことになったが、木材はその細い腕に叩き付けられた。
「よくもイシュタルに…。貴様ら全員消炭にしてやる。」
ユリウスは、エルファイヤーの呪文の詠唱を始めた。
「すぐに私達の目の前から消えなさい。そうすれば見逃してあげます。」
恐怖のあまり硬直していた無傷の男にイシュタルが声を掛けると、彼は火傷を負った男を促して気絶している仲間を抱えて死に物狂いで逃げて行った。
「何故、逃がしてやるんだ!?」
詠唱を止めたユリウスは、彼等を葬り去るのをイシュタルが邪魔したことに腹を立てた。
「ちょっと争ったくらいで殺す必要などないでしょう。それよりもやっとお会いできましたね、ユリウス様。さぁ、私と一緒に帰りましょう。」
イシュタルは半月以上も行方知れずになっていたユリウスを探しにここまでやって来たのだった。
あの噂が完全に知れ渡ってから、ユリウスは学校に来なくなってしまった。邸に閉じこもって誰とも会おうとしない日が続き、そして今度は邸を飛び出して姿をくらましてしまったのだ。
「帰りたかったら、一人で帰れ。ここは、お前のような者が来るようなところじゃない。」
「いいえ、ユリウス様と一緒でなければ帰りません。」
「私は帰るつもりはない。」
「でしたら、私も帰りません。」
イシュタルが一度言い出したら聞かないことくらい、今のユリウスにも分かっていた。まだ、そんなことも分からなくなる程歪んではいなかった。
「勝手にしろ。」
吐き捨てるように言うと、ユリウスはまたミニボトルを片手にだらだらし始めた。
イシュタルは何も言わずに左横の木箱に腰を下ろした。
会話のないまま、ただ時間だけが過ぎていった。ユリウスはその間に数個のミニボトルを空けていたが、それ以外の動きはなかった。
真夜中を大幅に回った頃、ユリウスはイシュタルの様子がおかしいことに気付いた。
「イシュタル…?」
ユリウスがイシュタルの手首を掴むと、かなり熱かった。
まさかと思ってユリウスがイシュタルの左腕を乱暴に掴むと、彼女は苦痛に顔を歪めた。
「お前、あの時の木材が当たってたのか?」
「大したことはありませんわ。」
「バカっ!これのどこが大したことないんだ!?」
イシュタルの腕は明らかに腫れていた。酷く変型してはいないが、発熱していることから考えあわせると折れているかヒビが入っているはずだ。
「来いっ!!」
ユリウスはイシュタルの右腕を掴んで、ズンズンと表通りに出て行った。そのまま辺りを見回したが、1台の車も通らず辺りには開いてる店などなかった。
しばし考え込んだ後、ユリウスは意を決して電話ボックスに飛び込んだ。カードを差し込むと手早くある番号をプッシュし、相手が出たとたんに捲し立てるように一方的に用件を告げた。
「そうだ。そこまですぐに車を回せ。それから医者を呼んでおけ。」
自分の言いたいことだけを告げて乱暴に電話を切ったユリウスは、電話ボックスから出てくるとイシュタルを連れて通りをしばらく上がったところにあるバス停まで行った。
「何で、もっと早く怪我のことを言わなかったんだ。言ってくれれば…。」
「言えば、どうだったと言うのですか?」
「言ってくれれば、すぐに帰したのに。」
「私はユリウス様と一緒でなければ帰りません。だからと言って、怪我を盾に無理矢理連れ戻すようなそんなことはしたくなかった。」
「だからって黙ってる奴があるか。このバカっ!!」
何故か、怒鳴られているイシュタルは平然としていて、怒鳴っているユリウスの方が涙目になっていた。そんな二人の元に間もなくヴェルトマーの車が到着した。
ユリウスはイシュタルの手を引いて車に乗り込むと、大急ぎで邸に戻るように命じた。その迫力に押された運転手はアクセルを強く踏み込み狂ったような猛スピードで車を飛ばしたが、辺りに車も人陰もないこともあってか事故も起こさず反則切符も切られずに無事ヴェルトマー本邸に辿り着いた。
車が止まるとユリウスは即座にイシュタルの手を引いて邸に駆け込んだ。
「医者は何処だ?すぐに客間に来させろ!」
そう言い付けながら、ユリウスはイシュタルをいつもの客間に連れて行った。
間もなく呼びつけられた医者がイシュタルの診察をした。結果は、単なる打撲で骨に異常はなかった。熱は疲労に因るものだったのだ。
「とにかく、今日はここで休め。原因は違っても熱があることには変わりないんだから、大人しくしてろ。」
怒ったように言い残して客間を後にしたユリウスは、廊下でアルヴィスと鉢合わせした。
「帰っていたのか…。」
無表情に言ったきり黙って自分の顔を見ている父に、ユリウスは不満と不安を覚えた。どうして何も言わないんだ、何故叱ってくれない。自分が罪の子供だから関わりたくないのか。それともロプトウスの依り代だから恐れているのか。
「お休みなさい、父上。」
「…ああ、お休み。」
途方にくれたような顔のアルヴィスを残して、ユリウスは足早に自分の部屋へ向かった。
イシュタルのおかげで一時期また邸に戻って来たユリウスだったが、間もなく姿を消し、今度はイシュタルの探索は間に合わなかった。イシュタルに怪我を負わせたこととアルヴィスが何も言わなかったこと、そのことでショックを受けたユリウスに、追い討ちをかけるような噂が広まったのだ。恐らく、前の話に尾ひれがついて真しやかに囁かれ始めたのだろうが、その内容はユリウスの心を完全に歪ませた。
イシュタルがユリウスに尽くすのはロプトウスの怒りに触れるのを恐れているからだと言う噂を、ユリウスは否定できなかった。イシュタルはそんな女じゃないと思いたかったが、最近のイシュタルは自分のことを怯えたような目で見ていたような気がしてしまったのだ。実際は悲しそうな顔をしていたのだが、歪んだ受け取り方をした後ではもう怯えているようにしか見えなかった。イシュタル自身が直接否定しても、ユリウスにはそれさえもロプトウスの怒りを恐れての言動としか思えなかった。
その結果、ユリウスは連続放火事件を起こすに至った。ムシャクシャして気の向くままに魔法で火をつけ、次々と放火件数を増やしていった。
ユリウスが逮捕され、アルヴィスは警察庁長官の職を失った。
同時期に起きた度重なる幼児誘拐や連続通り魔殺人もユリウスの仕業と思われたため3年の収監処置が申し渡され、逮捕された時に呆然自失となっていたユリウスはその疑いを否定も肯定もしないまま少年院に送られた。
ロプトウスの名に対する恐怖は、少年院の職員の中でも根深かった。これまでどんな凶悪犯罪を犯した子供でも更正させる為に手を尽くしていた彼等でさえも、ユリウスの扱いには困窮した。とにかく他の少年達から隔離し、毎日エッダの司祭にお祓いを頼んで最小限にしか近付かないようにした。
そして1年近くが過ぎた頃、ユリウスの退院が決まった。幼児誘拐や連続通り魔殺人の真犯人が捕まったのだ。
イシュタルはユリウスを信じていた。確かに連続放火はユリウスの仕業だろうが、本当に他にあれだけの事件を起こしたのかどうか、ずっと自分なりに調査を続けていたのだ。そしてついに真犯人を突き止め、ユリウスに掛けられた疑いを晴らしたのだった。
しかし、今のユリウスにはどうでも良いことだった。心を閉ざし自分の周りで起きることさえ他人事のように感じ既に時間感覚など失ったユリウスには、今が1年後だろうが3年後だろうが関係なく退院が早まったことに何の感慨もなかった。出ろと言われて引き出されたから大人しく出て行った。ただそれだけのことだったのだ。
「ユリウス様…。」
人形のようになったユリウスが引き出されたところには、イシュタルが待っていた。震える声で名を呼び、落ち着きなく自分を見つめているイシュタルの姿をユリウスは知覚し、頭の片隅で相手が誰だったかなどの記憶をデータのように探るだけだった。そして、あれは何かに怯えているのだろうかとパターン認識でもするかのような考えを浮かべていた。
ユリウスがボ〜っとイシュタルを見つめていると、突然彼女が走り出した。そして、ユリウスにしがみついた。
「ずっと…お会いしたかった。」
後はもう言葉はなかった。気がつくと、ユリウスの耳には喘ぐような声が聞こえていた。その声に、ユリウスの心は僅かに自分の中に戻って来た。
泣いてる?あの気丈なイシュタルが人前で。
確かにユリウスの前では泣くことがあったが、イシュタルは他の者が居る時には決して涙など見せなかった。最初の噂が広まり始めてユリウスが周りから悪し様に言われた時でも、相手に怒りをぶつけ、全員を追い払ってからユリウスの前でだけ悔しそうに涙を流した。そのイシュタルが一般職員達の見ている前で声を殺して泣いていた。
「イ…シュタ…ル?」
「ユリウス様。私が分かるのですか?」
イシュタルは職員達から、彼は魂を抜かれているなどと説明されていた。
「イシュ…タル?」
「どうやら、ちゃんと状況を認識しているわけでは無さそうだが、そなたのことは覚えているようだな。」
いつの間にか近くに来ていた大柄な男を見て、ユリウスの心は締め付けられるような痛みを感じ、自分の中から離れていった。
バレンタインの奇跡によって、ユリウスの心は完全に自分の中に戻って来た。
休日ごとに通って来たイシュタルの献身的な行動の賜物だったが、イシュタルが来ない平日にアルヴィスが示した愛情もユリウスの心を少しずつだが解かしていた。
最初はぎこちなかったものの徐々にその愛情を表す術を身に付けていった父の姿は、ユリウスが昔から求めて止まないものだった。
そう、今なら信じられる。父は確かに自分を愛していてくれたのだと。ただ、不器用だっただけなのだと。まだほんの子供の時分に自殺と失踪で両親を失いしかもそれ以前から父親と殆ど交流がなかった上にユリウスの誕生と引き換えに妻を失ってしまったアルヴィスには、ユリウスとの接し方が分からなかっただけなのだと。
今思えば、あの頃あんなにイラついたのは父に愛情を示して欲しかったからなのだろう。あの時心配して欲しかった。叱って欲しかった。だからあんなバカな真似をした。そして、出迎えられた時は心が締め付けられた。
けれど、もう間違わない。今まで間違った分を修正するのは大変だけど、その先には父が居てくれる。そして、傍らではイシュタルが支えてくれる。この2人が居れば、僕は自分の居場所を見失うことはない。そしていつか、この2人を支えられるようになりたいと強く願わずにはいられない。
そして、そんな彼の夢の中で誰かがクスっと笑った翌朝、ユリウスの身体にはファラの聖痕がくっきりと浮かび上がっていたのだった。