風韻想
ティニーが初めてセティの演奏を聴いたのは、イシュタルと共に行ったコンサートでのことだった。音楽好きの道楽貴族がスポンサーになって開いた、身分に関係なく気に入った者達を集めての合同コンサートである。その中で、彼の演奏は他とは比べ物にならない素晴らしいものだった。
時には身体を暖かい風が包み込むような、時には身を切られる程の冷たい風が辺りを吹き抜けるような、そんな錯角に陥る。
拍手の渦が会場を包んでも身動き一つ適わないティニーに、イシュタルはそっと耳打ちした。
「私は、この調べをユリウス様に捧げさせたいわ。」
この時のティニーには、イシュタルが何を言っているのか解らなかった。
すっかりセティの演奏に魅了されてしまったティニーは、伝を辿って居場所を突き止めると大きな花束を持ってこっそり会いに行った。すると、そこには先客が居た。
「セティ殿、どうしても否と仰られるのですか?」
「ええ。」
とっさに隠れてそっと様子を窺うと、セティに詰め寄っているのはお城で見たことのある2人だった。
「貴殿にとっては過ぎた申し出でありましょうに…。」
「そうですね。」
セティは、怒りに震えるフリージの使者を前に落ち着き払った顔をしていた。
「あなたの仰るように過ぎたお話ですから、慎んで辞退させていただきます。」
ちっとも慎んでないような態度に、ついに使者はキレた。横に居た部下にセティを羽交い締めにさせると、その左手に剣を添わせる。
「この手が使い物にならなくなっても、よろしいのですかな?」
申し出を拒否するなら二度とヴァイオリンが持てないようにしてやる、と脅す使者に、それでもセティは顔色一つ変えなかった。
「そんな脅しが通用するとお思いですか? 私を傷つけては、そちらにとって都合が悪くなりますよ。」
使者に与えられた使命は、ユリウスに演奏を捧げることをセティに承諾させることである。だからこそ、ステージに立つ時は合意の上でなくてはいけない。セティにユリウスを称える調べを奏でさせたい以上、彼が演奏出来なくなっては困るのだ。
「脅しかどうか…。」
使者は、極浅く刃を滑らせようとした。強がっては見せても、少々痛い思いをすればすぐに言うことをきくようになるだろうと考えてのことだ。しかし、ティニーがそれを許さなかった。
「ダメ〜〜〜っ!!」
ティニーは小屋に飛び込んで、使者に向かって電撃を走らせた。羽交い締めする腕が弛んだところでセティがふわりと身を躱すと、その様子に唖然として居たもう1人の使者にも怒りの『トローン』が炸裂した。
自分が仕出かしたことに驚き、ティニーは立ち尽くした。すると、いつの間にか横に来ていたセティが、軽く肩を叩く。
「あの…、わたし…。」
「とりあえず、ここから逃げませんか?」
倒れた2人が意識を取り戻す前に、と言われたティニーはそのままセティと逃避行を開始した。
どこかアテがあるなら送っていくと言われたが、ティニーにはアテなどなかった。あんなことをした以上もうフリージのお城には帰れないし、他に身寄りもないし、匿ってもらえるような知り合いも居なかった。
とにかく別の国に行くしかないとセティと共にイード砂漠を渡ったものの、自分がただの足手まといなような気がしてならなかった。
「気にしなくていいですよ。申し出を断った時点で、あそこを離れるつもりでしたから…。」
セティはそう言って笑いながら、ティニーを連れてイザークまでやって来た。そこで、2人分の生活費を易々と稼いで見せる。
強制されるのは嫌だと言って莫大な金と名誉を蹴っておきながら、道端やカフェで寄って来た人達のリクエストに次々と応えるセティに、ティニーは首を傾げた。てっきり音楽が絡むと気難しいのかと思いきや、全くそんなことはない。
セティは気さくに皆の言葉に応え、笑顔を振りまき、そしてティニーにとても優しくしてくれた。いつの間にか、ティニーはその演奏よりももっとセティが好きになっていた。綺麗なドレスもふわふわのベッドもなかったが、セティと慎ましやかな生活を送れる今の時間がティニーにはこれまでで一番幸せだった。
しかし、その幸せも長くは続かなかった。フリージからの追っ手が表れたのだ。
家を上げてセティをスカウトしようとしていたブルームは、信頼出来る部下を密かに各地に放っていた。そして、ついに2人の居場所を突き止めたその者はティニーを急襲した。
突然音もなく踏み入って来た男に、ティニーはあっという間に捕まってしまった。そして、男は直後に戻って来たセティを脅迫した。
「この娘の命が惜しかったら、我々に従っていただきましょう。」
セティを傷つけることが出来ない彼にとって、ティニーは恰好の人質だった。
「主筋の娘を殺すと…?」
セティは無駄だと思いながらも一応言ってみた。すると、案の定そんなことなど意に介さぬ答えが返って来る。
「所詮は一族の面汚しの娘よ。育ててもらった恩も忘れて、母親同様フリージを裏切るような小娘に、何の遠慮が要るものか。」
ティニーを嘲笑するのを見て、セティの表情に影が走る。それでも、その目は反撃の隙を窺っていた。
しかし、ティニーにはそれに気付く余裕はなかった。
人質として役に立てたとしてもまだ釣りが来る、と笑う男に喉元を締め付けられながらティニーは口の中で呪文を詠唱する。
声に出した方が威力も正確さも増すとは言え、それで魔法が使えない訳ではない。ティニーを役立たずの小娘と侮っていた彼に、彼女は自らも雷撃を浴びるのを承知の上で『トローン』をお見舞いした。
「小娘が、生意気な…。」
男は突き付けていた剣で斬り付けようとしたが、手が痺れて上手くはいかなかった。だが、あの時の使者達とは違ってさすがに魔法防御力が高いのか、ティニーを締め付ける腕はまだ緩まない。
「ティニー、やめるんだっ!! そんなことをすれば君まで…。」
『トローン』の余波を浴びているティニーにセティは叫んだが、彼女はやめようとはしなかった。
「要らない! セティ様の足枷になるわたしなんて要らない!」
ティニーの捨て身の攻撃に、ついに男の腕が弛んだ。床に投げ出されたティニーは這うようにセティの方へと進んだが、その背後から男の刃が振り下ろされた。
しかし、その刃がティニーの身に届くことはなかった。
殺される、そう思って閉じた目を再び開けたティニーが見たものは、左腕から血を流すセティの姿だった。その光景に、刃を振り下ろした男も呆然としている。
詰めた息を大きく吐き出すと、セティは静かに言った。
「これでもう、あなた方の望みは叶いません。」
男は力なく剣を収めると、無言で出て行った。
後に残されたティニーは傷だらけの身体に鞭打って杖を取り出し、セティの傷を癒す。しかし、回復魔法でも切れた神経を全て元通りに繋ぎ合わせられるとは限らない。寧ろ、出来たら奇跡だ。
「ごめんなさい…。わたしの所為で、セティ様にこんな怪我を…。」
「大丈夫だよ、このくらい。それより、杖を貸してもらえるかな?」
泣きじゃくるティニーから杖を借りると、セティは彼女の傷を癒した。その様子にティニーは目を丸くする。
「セティ様…。魔法、使えたんですか?」
「隠してた訳ではないのだけどね。」
セティは申し訳無さそうに、大抵の魔法は使えることを白状した。
「ごめん。先に言っておけば、君にこんな無理はさせずに済んだのに…。」
「いいえ。わたしが、余計なことをしたから…。」
セティの余裕の正体に気付かなかったために、取り返しのつかない傷を負わせてしまったと、ティニーは落ち込んだ。
「大丈夫だよ。」
そう言って笑いかけてくれるけど、あれ程素晴らしい音色を失って大丈夫な訳はない。そう沈み込むティニーに、セティは苦笑した。
「本当に、大丈夫だから…。でも、そろそろ潮時かな?」
「えっ?」
セティが何を言い出したのか解らず、ティニーはキョトンとした。
「君さえ良ければ、私と一緒にシレジアへ来てくれないか?」
「シレジア……ですか?」
そっと手を握って言うセティに、ティニーは少し考えてから小さく頷いた。
それから2人が北の街道からシレジアへの国境を渡ると、随分進んだ頃、上空から元気な声が振って来た。
「お兄ちゃん!」
驚いて見上げるティニーと、セティを見て驚いている声の主の様子をものともせずに、セティはにっこり笑って上空に手を振った。
「やぁ、ただいま、フィー。」
「…ただいま、じゃないわよ、もうっ!!」
フィーは怒ったように言うと、ペガサスを降下させる。
「ほら、さっさと乗ってよ。」
「そう言われても……3人は乗れないだろう?」
困ったように言うセティに、フィーはティニーをマジマジと見る。
「あなた、お兄ちゃんのお連れさん?」
「あ、あの…。ティニーと申します。」
慌てて名乗るティニーに、セティはフィーを紹介した。そして、フィーに向き直って一言添える。
「彼女はお前のお姉さんになる人なんだから、意地悪しちゃダメだよ。」
「ふ〜ん、そうなんだぁ。」
「えっ、あの…。」
フィーに面白いものでも見るかのような表情をされて、ティニーは戸惑った。しかし、フィーはそんなティニーに構わず「お母さまを呼んで来る」と言って、また飛んで行ってしまう。
そして事情が飲み込めないままペガサスに分乗して、ティニーは大きなお城へとやって来てしまった。
「おぅ、やっと帰って来たか。」
この城の主人と思しき男性に出迎えられて、ティニーは伺うような顔つきでセティの顔を見た。すると、セティは悪戯がバレた子供のような表情をする。
「で、俺の真似して家出した成果はあったのか?」
「えぇ、まぁ…。」
「嫁さん見つけて来ただけとか言うなよ。」
「言いませんよ。噂くらい耳に入ってませんか?」
「お前にそっくりの年格好の天才ヴァイオリニストが野盗に腕を切られて再起不能、って噂なら耳に入ってるぞ。」
途端に、ティニーがビクッと肩を震わせた。その肩を、セティは優しく抱き締める。
「切ったのは野盗じゃないんですけどね…。再起不能かどうか、確かめてみますか?」
「ああ、聞かせてもらおうか。」
そう言うなり、レヴィンは近くの部屋に全員を誘った。そして、セティはヴァイオリンケースを開ける。
「セティ様…?」
不安な目で見ているティニーを安心させるように微笑みかけてから、セティは演奏を開始した。それは、あのコンサートの時よりも優しく甘い響きだった。フュリーもフィーも聞き惚れている。
「ほぉ、これはなかなか…。」
レヴィンは感心したように呟きを漏らした。
「セティ様…。腕は…?」
レヴィンの声で我に帰ったティニーは、不思議そうにセティを見る。
「だから言っただろう、大丈夫だって。」
「でも、あの時確かに、もう望みは叶わない、と…。」
「ああ、あれ? だって、あんなことされて望みを叶える気になると思うかい?」
「えっ?」
「私は、二度と演奏出来ない、なんて言った覚えはないよ。」
言われてみれば、確かにティニーも聞いた覚えはなかった。
「…騙したんですか?」
「騙すだなんて人聞きの悪い…。私は嘘は言ってないだろう?」
それどころか「大丈夫」と何度も繰り返した。ただ、フリージの密偵の存在を気にして、ティニーの誤解を解くことも出来ないでいただけのことだ。
恨めしそうに上目遣いしているティニーを見て、レヴィンは笑った。
「まぁ、音楽大国シレジアの世継ぎの腕をダメにしたと騒がれるよりは、真犯人も幸せだろうよ。」
「えっ?えぇ〜っ!?」
ティニーは驚きの連続だった。次々と知らされたことに心が付いていけずにパニック状態となる。
そんなティニーの様子に、セティは「嫌われちゃったかなぁ」と不安そうに視線を送る。
それからティニーは何度も深呼吸して気持ちを落ち着けると、一番気になることだけ念を押した。
「本当に、腕は何ともないんですね?」
「それは……君の耳が一番良く知ってるんじゃないかな。」
優しく微笑みかけるセティの腕に、ティニーは嬉しそうに抱きついたのであった。