ある週末の出来事
久しぶりにエスリンとラケシスが一緒に面会にやって来たその日、何故か面会室に現われたのはシグルド一人だった。
「兄上、キュアン様はどうなさったのですか?」
「エルト兄様はご一緒ではありませんの?」
開口一番、そんなことを言われてしまったシグルドは「ちょっと、ね。」と笑いながら心の中をすきま風が吹き抜けていくのを感じた。二人を部屋へ案内しながら、だんだん気分が沈んでくる。
徐々に歩みが遅くなっていく兄の様子に、エスリンは足を止めるとシグルドの腕を掴んだ。
「兄上、何か私達を部屋へ連れていきたくない理由でもあるのですか?」
「いや、そんなことはないんだけど…。」
「だったら、どうしてそんなにトロトロと歩くのですか?」
声量こそ絞ってあるものの妹に怒鳴られ睨み付けられて、シグルドはクスンとしながら答えた。
「どうせ、私には挨拶する必要すら感じてないんだよね、二人とも。」
「えっ?」
驚くエスリンを余所に、シグルドは壁に額をつけていじけた。
「私は久しぶりに二人に会えて嬉しかったのに…。」
そこで、エスリンとラケシスははたと気づいた。自分達は互いが最も会いたかった者達が現われなかったことに気を取られて、シグルドを粗雑に扱ってしまったことに。
「あ、兄上。お元気そうで嬉しいです。」
「あの、シグルド様。お久しぶりですわ。」
慌てて言い募る二人に、シグルドはあっさりと上機嫌になったのだった。
シグルドが二人を連れて部屋に入ると、そこではエルトシャンが机に向って真剣にペンを動かしていた。
「エルト兄様〜!!」
ラケシスがエルトシャンに駆け寄って抱きつこうとすると、その手前でエルトシャンがストップをかけた。
「あと少しで終る。そのくらい、待てるよな?」
ラケシスは面白くない気分だったが、エルトシャンに嫌われたくないので大人しく待つことにした。勧められるままに、近くにあった椅子に座る。そして、早く終れと念じながら手元を凝視するラケシスの視線を感じつつ、エルトシャンは流れるようにペンを動かし続けた。
「何だか、珍しい光景を見た気がするわ。兄上ならともかく、エルトシャン様が面会日までに課題を終えられてないなんて…。」
「そうですわ。こんなこと、お兄様らしくないですわ。一体、何がありましたの?」
ラケシスもエスリンの言葉に反応し、エルトシャンの手元から視線をシグルドの方へ移動させる。
「何って、えぇっと…。」
「それに、キュアン様はどうなさったんですか? 全然お姿が見えないではありませんか。」
「だから、それは…。」
シグルドが返答に窮していると、エルトシャンがペンを止めてカーテンの奥に向って声をかけた。
「終ったぞ、キュアン。これで課題レポートは心配いらないから、安心してゆっくり休め。」
「えっ、キュアン様は奥にいらっしゃるんですか?」
エスリンは急いでカーテンをめくろうとした。しかし、シグルドが慌てて止める。
「兄上、邪魔しないで下さい!!」
「駄目だよ、エスリン。キュアンの気持ちも考えてあげなきゃ。」
エスリンが何を言われているのか解らないという表情を浮かべていると、奥から微かだが咳き込むような音が聞こえて来た。それでキュアンの様子を察したエスリンの肩を軽く叩くと、エルトシャンは簡単に言い置いてラケシスをお茶に誘って部屋を出て行った。
「弱ってるとこ見られたくないし、君にだけはうつしたくないそうだ。」
「そうそう。だから、今日は私と二人っきりでお茶でも飲まないか?」
それを聞いたエスリンは、納得したかのような表情を浮かべたかと思いきや、力一杯カーテンを押し開けて中へ飛込んだ。
「あっ、エスリン!!」
シグルドの叫び声とカーテンが勢いよく開けられる音を聞いて、キュアンは布団の影からそっと光の方向に目をやった。そこには、背後からの光を浴びて進み来るエスリンの姿があった。
「熱は? 食欲は? ちゃんと水分や栄養を摂られてますか?」
布団の中に潜り込むキュアンに、エスリンは矢継ぎ早に質問をしながらてきぱきと空気を入れ替えるべく窓を開けたりし始めた。
「エスリン…。」
「弱ってるとこ見られたくない、ですって? でしたら、こんな時に風邪などひかないことですね。それに、私は簡単に風邪をうつされる程やわな身体はしてないつもりです。」
憤慨したようなエスリンの態度に、キュアンは益々布団の中に埋もれていった。それを見てフッと軽く息を吐くと、エスリンは柔らかな微笑みを浮かべた。
「リンゴでも剥きましょうか?」
手土産として持って来た篭の中からリンゴを取り出すとエスリンは近くの椅子を引き寄せ、篭のカバーにしていた布を膝の上に置いて器用にリンゴを剥き始めた。一切れ分を切り出しては、皮と芯を取ってキュアンに差し出す。
キュアンは起き上がってそれを受け取ると、シャリシャリと食べ始めた。
「如何ですか? 食べられそうなら、もっと剥きますよ。」
キュアンが無言で頷くと、エスリンは嬉しそうに次々とリンゴを切り出してはキュアンに差し出した。
「あの〜、エスリン。私の分は?」
いつの間にかキュアンの枕元に来ていたシグルドが口を挟んだ。
「あら、兄上も食べたいんですか。」
「食べたいぞ。私にも剥いてくれ。」
拗ねたように言いながら椅子をひいてくるシグルドに、エスリンはキュアンと交互にリンゴを差し出していった。
そしてエスリンは、面会時間終了ぎりぎりまで甲斐甲斐しくキュアンの世話を焼き、元気に帰って行ったのだった。
翌日、エスリンは元気だったがシグルドはキュアンの風邪がうつり、エルトシャンは今度はシグルドの分の課題レポートを代筆する羽目になった。提出期限は明日。またしても、エルトシャンは真剣な表情で休む間もなく机に向ってペンを動かす。
「ゴホ、ゴホッ…。ごめん、エルト。代筆よろしくね。」
「お前の場合は、ワイン2本だぞ。」
「え〜っ、キュアンは1本だったのに〜!?」
別に、キュアンの場合はエルトシャンが要求した訳ではない。レポートの提出期限が迫っているのに風邪がなかなか治らなくて、無理して起き上がった挙げ句にぶり返して倒れ込んだキュアンを見るに見兼ねてエルトシャンが代筆を申し出ると、キュアンが自主的に奢ると言い出したのだ。
だが、シグルドの場合は事情が違うのでエルトシャンの方から要求した。
「前もって出来たはずのことをしてなかった奴は割増になって当然だろ?」
そもそも残っていた分量もキュアンの方が少なかったのだし。嫌なら代筆するのやめても良いんだぞ、と言わんばかりのエルトシャンに、シグルドは回復後にワイン2本を奢る約束をさせられたのだった。