第35話
ヴェルダン家のバレンタイン・イブは、それ程慌ただしくはなかった。
元々パティはお菓子作りに慣れているし、普段から台所を預かっているし、両親はまた都会を離れているから兄と2人暮らしだし。
そんな訳で、パティは学校から帰るとてきぱきと夕食の支度をし、先に出しておけるものを食卓に並べ終えると、早速お菓子作りに取りかかった。
パティが作るのはココアマドレーヌである。手軽で簡単、持ち運びにも便利な代物だ。
粉とベーキングパウダーを振るい混ぜたところに粉末ココアを加えて、卵と砂糖と溶かしバターを加えて良く混ぜ、型状パラフィン紙を入れた10個の型に生地を流し込むまで所要時間約25分。後は200度のオーブンで20分焼けば出来上がりだ。
「パティ、晩飯は出来てるのか〜。」
「ちゃんと出来てるわよ。ほらっ。」
マドレーヌ作りをしているパティに声を掛けたファバルが見たのは、食卓の上にちゃんと並べられた夕べの残りのおかずだった。
「これだけか?」
「お刺身もあるわよ。」
冷蔵庫から刺身と漬け物を出して並べると、それなりに品数のある夕飯になった。
途中、パティは焼き上がったマドレーヌを取り出すために席を立ち、コンロの上に乗せた冷まし網の上にマドレーヌを並べて戻って来た。
夕飯を終えてしばらくすると、パティはファバルのところに半分に割ったマドレーヌを持って来た。
「ちょっと、味見してくれる?」
ファバルはマドレーヌを受け取ると、更に半分に割って口に放り込んだ。続けてもう半分も放り込む。
「うん、旨い。」
「じゃあ、大丈夫ね。」
何が大丈夫なんだろうかと首を傾げたファバルに、パティは自信たっぷりに言った。
「お兄ちゃん、味にうるさくてお世辞が苦手だから。」
つまり、ファバルが認めたから本当に美味しいんだろうという結論に至った訳だ。自分でも味見はしているが、これで安心して明日レスターに渡せる。
「なぁ、レスターのどこがそんなにいいんだ?」
「全部♪」
「…聞くんじゃなかった。」
「お兄ちゃんから見てどうかは知らないけど、少なくともお兄ちゃんより甲斐性があることだけは確かよ。」
学校から帰ったナンナは、部屋で着替えてくると台所でフィンの帰りを待った。新しい試みをする場合は、フィンの許可なく台所を使用することは出来ないのだ。
ひとまず、買い揃えた材料が全て揃っているか確認すると、後はフィンが帰ってくるまで何も出来なかった。
会社から帰ったフィンを喜び勇んで出迎えると、ナンナは早速台所の使用許可を求め、フィンは夕食後の使用をあっさり承諾した。
夕食の後片付けをするフィンの横でしばらく待っていると、フライングで使用許可が出たのでナンナはチョコケーキ作りを開始した。
やってることはパティと大してかわらなかったが、ココアではなく最後に溶かしたチョコレートを加えて手早くかき混ぜるとパウンドケーキの型に移した。後はオーブンで焼き上がるのをしばらく待つ。
粉末のココアを使うか溶かしたチョコレートを使うか迷った挙げ句、結局難度の高いチョコレートの方を選んだが、どうやらちゃんと生地に混ざり込んだらしくナンナはホッと一息ついた。材料はこの1個分しか買っていない。粉や砂糖などは家のストックがあるが、チョコレートとバターは余裕がないのだ。ぶっつけ本番の1発勝負である。
ケーキを焼き上げている間にナンナは使った調理器具を片付けると、監督していたフィンと一緒にお茶を飲んだ。
「あのケーキは、全部アレス様に差し上げるのか?」
パウンドケーキを丸ごと1個、手渡された方は嬉しいかも知れないがその場で味見は出来ないだろうな、というのがフィンの素直な感想だった。
「いいえ、切り分けてお父様とリーフ様にも差し上げますわ。」
「リーフ様にも?」
「はい。しつこいくらいに「欲しい」と言われていますから。」
フィンは苦笑した。
「どうかなさったんですか?」
「いや、キュアン様の計画は結局意味がなかったんだな、と思ってね。」
リーフに黙って裏で手をまわしたところで、当のリーフがナンナに催促してしまった以上、あの話は全く意味を為さない。あんな思いまでさせられたのに…。
事情を聞いたナンナは、フィンと同様に苦笑した。
「まったく、とんだ茶番だったな。」
「でも、そんな大変な思いをしてまで断って下さってありがとうございます。」