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ハンニバル将軍と和解して、セリス達はトラキア大陸を更に南下した。
その道中、ナンナの心は乱れていた。
「どうして、あんな人のことなんか…。」
前方を行くアレスが気になって仕方がない。しかも、今目に映る姿だけではなく、これまでのことが何度も思い出される。反発しながらも、ナンナは随分アレスのことを見続けて来た。やたらと目に付いて、癇に障って、それでいて惹き付けられる。
「やだっ、私ったら何を…。」
自分の中に浮かんだ光景に、そして思い返される感覚に、ナンナはそれらを散らすようにして激しく頭を振った。
そんな様子を近くで見ていたリーフは、ナンナの動揺を推し量って溜め息をついていた。
「どうしたの、リーフ?」
リーフの様子がおかしいのに気付いて、セリスは休息中に隙を見てそっと声を掛けた。そして、人目を忍ぶような木陰へと誘う。
根元に腰を下ろして、リーフはポツリと言った。
「どうやら、ナンナが自覚してしまったようなんです。」
「何を?」
「アレス殿への気持ちを。」
「どんな気持ち?」
「ナンナは、アレス殿のことが好きなんです。」
帰りの遅いアレスを心配したり無事に戻ったアレスの顔を見て泣いたりしてた頃からそんな気はしてたけど、とリーフは溜め息をついた。一時期ナンナがアレスを気にしていると噂が立ったものの、すぐにナンナの態度が元に戻って立ち消えになったから安心してたのに、と…。
それを聞いて、セリスは立ち上がって叫んだ。
「それじゃ浮気じゃないのっ!?」
目をむくするセリスに、リーフの方がキョトンとする。
「…ナンナはフリーですから浮気にはなりませんよ。」
「えっ、ナンナって君の婚約者でしょ?」
「残念ながら違います。」
驚くセリスに、リーフは溜め息をつきながら答えた。
「セリス様…。勝手な思い込みでひとをやたらとカップル扱いするその癖、治した方が良いのではありませんか?」
その所為でリーンをあんなに傷つけておきながら全く懲りてないのか、とリーフは呆れ顔である。
「まぁ、ナンナがそう誤解されるのは私にとっては有り難いことですけど…。」
きっと他にも誤解していた者は沢山居たのだろう。おかげでライバルが減った。リーフの婚約者だと思われたナンナにちょっかい出そうとするような不届き者はこれまで出なかった。それでナンナが迷惑してる様子も見られなかったことだし、この際今までのことは良しとする。
「でも、こうなると……困りましたね。」
今、ナンナは自分の気持ちを自覚し始めて苦しんでいる。皆の誤解は、そんなナンナの心を余計に苦しませてしまう。
「だからって私も、彼女さえ幸せになるのなら、なんて身を引けるような出来た人間ではありませんしね。」
誰かと奪い合う事態になってもナンナを自分のものにしたい。それがリーフの本音だった。
セリスはストンとリーフの横に座り直すと、無責任な口調で言った。
「だったら、今のうちに告白しちゃえば?」
「はぃ?」
「だって、ナンナはまだ完全にアレスに心奪われたって訳じゃないんでしょ? だったら、先に告白しちゃって誤解を事実にしちゃえばいいじゃない。ナンナだって、その気がなかった訳でもないんだろうしさ。」
皆の誤解を解こうとしなかったのはナンナだって同じだ。脈がない訳ではない。
そうけしかけるセリスに、リーフはまた呆れ顔を向けた。
「ダメですよ。」
「どうして?」
「ナンナは私のことを主君だと思ってます。私がそんなこと言ったら、断れる訳ないでしょう?」
彼女の性格はよく解っているつもりだ。主君から愛を告白されれば、彼女は自分に拒否権がないものと思い込む。リーフは、そんな権力を嵩に着たような形でナンナに傍に居て欲しい訳ではない。だから、ナンナに自分を1人の人間として男として見てもらえるように様々な形でアピールして来たつもりだった。それでもナンナがリーフを見る目が変わらないから、彼は未だに告白出来ない。
第一、ナンナが誤解を解こうとしなかったのはフィン共々単にそれに気付いてないからなのだ。
しばらく2人は押し黙ったまま、時を過ごした。
そして、セリスは溜め息混じりにこぼす。
「それにしても、また、厄介な相手を…。」
他の者達と違って、噂話に無関心なアレスはリーフとナンナの仲を誤解してはいないだろう。もしそれが耳に入っていたとしても、自分が惚れたら相手が人妻だろうが他人の婚約者だろうがお構いなしかも知れない。経験豊富で魅せ方を心得ているアレスに本気でせまられたなら、リーフの勝ち目は殆どないだろう。だがそれでも、本気だったのならまだマシだ。
問題は、アレスにその気がなかった場合である。
「アレスの方が興味すら示さないなら、救われるんだけどねぇ…。」
少なくとも、アレスがナンナに興味を持っていることだけはセリスにもよくわかっていた。
ナンナの気持ちをアレスが知ったら、初心なナンナなどあっさりつけ込まれて好き放題にされてしまう恐れが大だ。押されて流されて、あれよあれよと言う間に美味しく頂かれてしまう。その結果、アレスの方は事が済んだら興味を無くしてしまうことだって考えられる。
「そんなこと、さらりと言わないで下さい!」
「まったくだ。ひとのこと獣みたいに言いやがって…。」
セリスが並べ立てた予想図にリーフが抗議の叫びを上げると簡抜入れずに、頭上から声が降って来た。
その声の持ち主に心当たりがあるものの、出来れば勘違いであって欲しいなぁ、という思いで恐る恐る頭上へ目を遣った2人の祈りも虚しく、そこにはアレスの姿があった。揃って口を開けて見ているセリスとリーフの前で、アレスは枝の上で身を起こすと軽やかに飛び下りる。
「アレス殿!いつからそこに…?」
「お前らが来る前からだ。」
つまりここでの会話は最初から全部アレスの耳に入っていたという訳だ。ナンナの気持ちもリーフの気持ちも、そしてセリスによる評価も…。
「面白い話を聞かせてもらった。」
「あぅわぅっ、ナナナ、ナンナの気持ちは私の想像ですからねっ!!」
リーフは慌てて言い募ったが、アレスはそれを無視した。そして、セリスを見て口角を僅かに上げる。
「お前がどんな目で俺を見てるか、よくわかった。二度とそんな減らず口がきけないように、その首、叩っ切ってやろうか?」
「ぃや、それは、その…。あくまで最悪のケースだからね、あれは…!」
セリスは慌てて逃げ出した。その冷ややかな笑顔は、睨み付けられるよりも遥かに恐ろしい。
「あっ、セリス様!」
置いて行かれてしまったリーフは、後を追おうかどうしようか迷った。そして、アレスが自分の方をジッと見ていることに気付いて固まる。
冷や汗を流しながら自分の方を見ているリーフの様子に、アレスはフッと笑った。
「安心するがいい。俺は、遊びでああいう女を抱きはしない。」
遊びで抱くのは後腐れのない年期の入った商売女だけ。後は、言い寄って来るのを適当にあしらうだけで、そこまではしない。下手な真似をして、迂闊なところに『ミストルティン』の継承者が生まれて来ては困る。そのくらいの自制心はあるのだ。
「そうなんですか…?」
「ああ…。」
アレスの話を聞いて、リーフはあからさまにホッとした様子を見せた。
それを見て、アレスはスッと目を伏せてボソッと言う。
「本気になったら話は別だがな。」
計算したように視線を引き付ける顔と口調で言い切られて、リーフの心の中で木枯らしが吹き荒れた。