氷解

子供達だけでグランベルの外れの賊を倒したあの戦いから2ヶ月が過ぎようとしていた。
そんな中で、アイリーンの様子がおかしかった。兄との鍛練の最中だけはこれまでと何ら変わりない様子なのだが、普段はぼんやりしていたり溜息をついている姿がよく見受けられるようになった。
「何か、悩みがあるのか?だったら、話してみろ。」
妹や従妹達とのお茶会のとき、またしてもぼんやりして溜息をついたアイリーンに、マリクは思い切って問い掛けた。
「いや、別に…。」
話そうにも、アイリーンは自分でもよく分からないのだ。そんな彼女をしばらく見つめていたマリアが、ぼそっと呟いた。
「ルーファス様はフリーですわ。」
その直後、そこに居た者達は信じられない光景を目にした。アイリーンがティーカップから手を滑らしたのだ。
幸い、カップはソーサーから数ミリ持ち上げられていただけだったので割れずに済んだ。しかし倒れたカップから紅茶が零れ、テーブルやアイリーンの膝を濡らしていった。
「ななな、いきなり何を言うんだ、マリア! 私は別にあの方のことなど…。」
アイリーンのその反応に、一同は今度は耳を疑った。
「あの方、と来たか。」
驚いたようにマリクが言葉を漏らすと、更にアイリーンは真っ赤になって「何でもない」と繰り返した。そこでマリアが再びぼそっと呟く。
「膝、熱くありませんか?」
アイリーンはハッとなって自分の膝を見た。そして、熱くはなかったがスカートにかかった部分が染みになりそうだったので急いで着替えに走っていった。
「お姉様、随分と動揺してらっしゃいましたね。」
「あいつがあんなに取り乱すのを見るのは初めてのような気がする。」
テーブルに零れた紅茶を拭き取りながら、ラシャとマリクは目を丸くしていた。
「マリアも人が悪いな。あんな言い方をして…。」
「そうよ。最近、セシル様に似てきたんじゃないの?」
「マリアはあんなに性格悪くありません!!」
マリク達の冗談交じりの発言に、マリオンは不機嫌そうに言い返した。しかし、当のマリアはきょとんとしている。
「それにしても、よくわかったな。アイリーンの想い人がルーファス王子だと。」
そもそも、マリクは妹が恋をしていることにすら気づかなかった。昔はわずかな表情や態度の変化からいろいろ察することが出来ていたはずなのに、最近では『アイスドール』としての彼女に慣れてしまい過ぎて秘められた感情を読み取ることさえ忘れてしまうようになっていたのだ。
「セシル様にお聞きしました。」
先日セシルはソファラまでお茶を飲みに来た時に、「実はアイリーン姉様の様子が…」と話すマリアにいろいろな情報を教えてくれた。アイリーンがルーファスに特別な感情を抱いているらしいこと、ルーファスがフリーだということ、そして彼の理想の結婚相手の条件などを。
「ほぉ、『アグストリアの若獅子』の理想とはどんなものか興味があるな。」
マリクは自分も似たような状況だから他人のことをとやかくは言えないものの、本来ならば彼には婚約者がいても不思議ではないはずだ。それが未だ候補者の名前すら聞こえてこないとなると、よほど理想が高いか難問だということだろう。
「個人的なものではなくアグストリアの未来の王妃の条件と言うことらしいのですが…。」
そう前置きしてから、マリアはセシルから聞いて来た情報を開示した。
「…と言うことですから、アイリーン姉様は見込みありです。」
「それは面白いな。」
マリクはニヤリと笑うと、両親に話をするために城の中へと入っていったのだった。

マリクから話を聞いたシャナンは、思わぬ縁談話に戸惑った。
「しかし、アグストリアのルーファス王太子と言えば妹姫と良からぬ噂が流れてなかったか?」
「ああ、あれですか。デマです。」
まぁ、国内や近隣諸国の貴族の娘達を片っ端からソデにしたとかいう話は本当だろうが、「妹とデキてる」という噂は丸っきりのデタラメだった。恐らくは、振られた女性側から発せられた恨み言と、アレイナの態度に依るものだろう。何しろ、マリクはルーファスがアレイナに妹以上の感情を持っていないことを先日その目で確かめたのだから。もし噂が本当ならば、あの賞品授与の後であんなに真剣にワインで口直しなどしないだろう。表面上は平静を装っていたが、あれでかなりの精神的ダメージを受けていたらしい。
「それで、先方の意志はどうなんだ?」
「それはまだこれからの話ですが、アイリーンは彼の掲げた結婚相手の条件に適っているらしいですよ。」
真面目に問い返す父王に、マリクは笑顔を浮かべて答えた。自分のことは自分で出来て、臆することなく意見を交換し合えて、自分の横に立てるだけの存在力がある人というのが彼の出した条件らしい。その点、アイリーンは理想にピッタリである、と。
「まぁ、確かにあれは自分のことは自分で出来るし、意見はハッキリ言うし、相手が誰であろうともかすみも気後れもせずに隣に立てるだろうが…。」
「アイリーンとしても、まさか自分が出した難題をクリアする者が居るとは思わなかったでしょうね。」
まだ幼い少女の頃、周りの者が持って来る結婚話を一蹴するのにアイリーンが出した条件は、ルーファスのものとよく似ていた。自分のことは自分で出来て、忌憚なく意見を交換し合えて、そして自分と互角以上に剣もしくはそれに類するものを使える者。国内の何処を探しても、アイリーンと互角以上に戦える者など身内以外には居なかった。この条件の前に、王家とよしみを持とうとした者達の野望は潰えたのだ。
「まぁ、だからこそ惚れた、ということか?」
「それはどうでしょうか。条件だけなら、他にも該当者が居ますからね。」
剣ならセシルだって使えるし、他の武器まで含めれば先日集まった者達の中にはアイリーンと互角以上に戦える者が大勢居た。全員各地の世嗣だけあって意見の交換は慣れているし、親達の意向もあって自分のことは自分で出来る。
「しかし、アグストリア側がこの話を受け入れるかどうかは難しいな。何しろ、『アイスドール』の名は国内外を問わず畏怖されているようだから。」
「おや?『殺戮の女神』を娶った方とも思えぬ発言ですね。」
「いや、私はラクチェをその前から見て来たし、彼女をそこまで鍛えた本人だし…。」
「ああ、光源氏計画ですか。」
他の男に取られないように見向きしないようにと鍛え上げたんですね、と言わんばかりの息子に対してシャナンが口籠ったところで、どこからともなく猛スピードでかけて来る者の足音がしたかと思うと、マリクをして避け切れぬ程の素晴らしい早さで彼の頭にスリッパが叩き付けられた。
「ラクチェ…。」
その素晴らしすぎる地獄耳と見事な攻撃に、シャナンは感心しながらもやや呆れ顔になった。
「人を殴る時は素手にしろと言っておいたと思ったが、私の記憶違いか?」
「あっ、いけない!! うっかりしてました。」
シャナンのスリッパを洗っている最中だったラクチェは、そのまま手にしていたスリッパで息子の頭をはたいてしまったことに気づいて手をバタバタさせた。
「まぁいい。今回は見なかったことにする。」
さすがに今のマリクの言葉はショックだったし、と付け加えるシャナンにマリクは冗談混じりに言った言葉を慌てて訂正した。ちょっと調子に乗り過ぎたようだ。
素直に謝る息子にラクチェも機嫌を直すと、そのまま仲間に入りたがった。
「二人で、何のお話してたんですか?」
「うむ。アイリーンの縁談について少々、な。」
シャナンはラクチェにこれまでのことを話して聞かせ、3人でいろいろ話し合った結果、この話はグランベルを通じて正式にアグストリアに伝えられることとなったのだった。

セリスの名でアグストリアにルーファスとアイリーンの見合い話が持ち込まれたのは、それから半月後のことだった。
「…という訳で、本人の考えを聞こうか。」
父王からセリスの親書とアイリーンの資料を見せられたルーファスは、ざっと目を通して見合い話を受け入れた。
「とりあえず、改めてお会いしてみましょう。」
先日セシルに根掘り葉掘り聞かれた時に−セシルはバレないようにしていたつもりらしいが−アイリーンの気持ちを知らされたからこの話は意外でも何でもなかった。だが、こうも正式なルートで話が持ち込まれるとは思ってもいなかったために、セリスやシャナンの王としての意図がどのようなものなのか警戒せざるを得なかった。
ひとまず、仲介にあたるグランベルの面目もあるので具体的な見合い方法はセリスに任せることにして、アレスはデルムッドに書かせた親書にサインをすると使者に渡したのだった。
そして、見合い当日。無理矢理付いてきたアレイナと姉に引っ張ってこられたフィーナと共に、ルーファスはバーハラ城の庭園に居た。
「おい、そろそろ時間だから少し離れていろ。」
「わかりましたわ。」
やや不満そうに、しかし兄に命じられては逆らうことも出来ず、アレイナはフィーナと共に渋々とルーファスから離れて行った。離れた先でフィーナを何やら唆しているようなのが気になったが、反対側からセシルに連れてこられるアイリーンの姿を見止めてルーファスはそちらへ向かって歩いて行った。
「アイリーン姫、またお会いできて嬉しく思います。」
「あ、ああ。」
自分がちゃんと自覚しない内に周りが寄って集ってお膳立てしてくれた見合いに、アイリーンはルーファスの前でどんな顔をすればいいのか困惑していた。
「折角ですから、2人でこの庭園を散策させていただきましょうか。勿論、あなたがお嫌でなければですが…。」
「い、嫌ではない!!」
アイリーンが即答するのを受けて、ルーファスはセシルに「尾行するなよ」と言い置いて彼女を伴って歩き出した。
しばらく会話もないまま庭園を散策すると、ルーファスは適当に腰掛けられそうな場所を見つけてアイリーンを座らせた。その際、ハンカチ等を敷くような真似は敢えてしない。だが、アイリーンは気にもせずに勧められるままにその場に腰を下ろした。
「さてと、ここまで来れば大丈夫かな。少々、聞きたいことがあるんだがいいか?」
ルーファスは辺りに聞き耳を立ててる者がいないかどうか気配を探ると、アイリーンの隣に腰を下ろした。
「ああ。何だ、聞きたいこととは?」
ルーファスの口調がいきなり変わったにも関わらず、否、だからこそ普段の調子を取り戻しつつ、アイリーンは平然と聞き返した。
「今回の縁談は、姫自身の意志か?」
この縁談の出所について直球で聞いてくるルーファスに、アイリーンは正直に事の次第を話した。そうしている内に、どんどん調子が戻って来る。
「周りの者達が言うように、私は貴公を好いているのだと思うのだが…。」
「確かに難しいな。周りがこうも騒ぎ立ててくれると、余計に自分の心が解らなくなる。」
「ああ。」
お互い、あの数日間の共同生活と戦いの中や後で相手が気になりはしているものの、先に周りが騒いでくれたおかげで正直なところ果たしてこれは恋愛感情なのかどうか困惑してしまう所があった。
「だが、私はこの話を進めても良いと思っている。」
それが、感情から来るものなのか立場から来るものなのかは不明だが、少なくとも嫌だと感じていないことだけは確かだった。
「そうだな。こちらとしても、悪い気は…。」
ルーファスがそこまで言いかけた時、彼の名を呼びながら走り回っているアレイナの声が響いた。
「やっぱり、邪魔しに来たか。」
予測の範疇だったとは言え、ルーファスは心の中で溜息をついた。
「あの者は、いつもああなのか?」
「ああ。俺の近くに女性が居ると、大抵、何かしら理由をつけて邪魔しに来るんだ。セシルが見張ってるだろうから平気だと思っていたんだが…。」
困ったようにこぼすルーファスにアイリーンは「妹御に愛されているのだな」と笑った。それは極わずかな笑みだったが、これまでの彼女を知る者が目にしたならば驚く程の柔らかい表情だった。
「放っておく訳にもいくまい。このままではずっと騒ぎ続けるのであろう?」
似たような者が従弟に居るからわかるぞ、と言うアイリーンにルーファスは静かに答えた。
「ご明察いたみいる。」
こうして、アイリーンはルーファスが仕掛けた設問を全てクリアしたのだった。

アレイナに連れられて2人が向った先は、最初に待ち合わせた場所から少し入った所の噴水池だった。
「ここですわ。ここにフィーナがうっかりペンダントを落としてしまいましたの。私達では拾いに行くにもここへ登れませんし、お兄様なら良い方法を御存じかと思いまして。」
登れないくらい縁の高い池にどうやってうっかりペンダントを落とすと言うんだ、と内心頭を抱えながら、ルーファスは池の縁に飛び乗って中を覗き込んだ。確かに、それらしきものが池の中程に沈んでいる。
仕方ないから取って来てやるか、とルーファスは上着を脱いでシャツの袖を捲った。長靴は脱がなくてもギリギリ大丈夫な深さのようだ。だがそうしている間に、ルーファスの傍らで影がふわりと動くと池の中に入り込んだ。アイリーンが池の縁に飛び上がってポイポイと靴を脱ぐと、服の裾を縛り上げて、そのままバシャバシャと歩いてペンダントを拾いに行ったのだ。
「アイリーン姫…。」
「私の方が手軽な格好をしているのでな。」
短靴を脱いでしまえば素足だし、大きくスリットの入った服は裾を縛り上げてしまえば水に浸からない。袖はと言うと三分袖なので捲る必要がない。グローブは濡れても問題ない。
「ペンダントとは、これで良いのか?」
アイリーンは池の縁に手をかけてフィーナに向けてペンダントを差出した。
「はい。ありがとうございます、アイリーン姉様。」
「あっ、フィーナの裏切り者!!」
アレイナは怒ったが、裏切るも何もフィーナは自分より年上の姫はすべて「姉様」と呼ぶのだ。彼女がルーファスの見合い相手であろうとなかろうと。
しかし、この時のフィーナの言葉は、ルーファスの気持ちを後押しした。今の行動で改めて個人的にも彼女のことが気になり出したところに、「アイリーン姉様」である。意識するなと言う方が無理だろう。
アイリーンはルーファスの差出したキュプラのスカーフで手足の水を拭って靴を履き直すと、地面に降り立って裾を元に戻した。
「これは洗ってから返す。」
「別に、少々濡れただけだからそのまま返してくれて構わんが…。」
「いや、次に会うまでに洗っておく。」
そう言い張ってアイリーンはスカーフを握りしめる。そこでルーファスは、セシルが近々またソファラ城までお茶を飲みに行こうと企んでいるのを思い出してこう答えた。
「わかった。近い内にイザークへ行くと思うから、その時返してくれ。」

-了-

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