わんだふるパニック

書類の山と格闘していたアレスがお茶の時間をこれ幸いと全て放り出してティールームへ行くと、ナンナの姿はなかった。しばらく待ってみたが一向に現れる様子はなく、昼から誰も姿を見かけていないと言うので、具合でも悪くなったのかと心配したアレスは部屋へ走って行った。
「おいっ、ナンナ居るか?」
そう声を掛けながら部屋に入ったアレスの目の前で、ナンナは子犬と戯れていた。
「あら、いやだ、見つかっちゃった。ねぇ、この子飼ってもいいかしら?」
ちょっと跋が悪そうにした後、楽しそうに笑いながらナンナは子犬を抱き上げてアレスに見せた。
しばらくそれを眺めた後、アレスはナンナの手から子犬を取り上げると踵を返した。
「ちょっと、アレスってばその子をどうするつもり?」
「森に捨ててくる。」
不機嫌そうに言って部屋を出て行こうとするアレスを、ナンナは略礼服のコートの裾を掴んで止めた。そして、振り返ったアレスを睨み付ける。
「そんな目をしてもダメだぞ。俺とお前の貴重な時間を邪魔する輩は、この城に居る資格はない。」
「貴重な時間って…今は執務中でしょ。だったら、私がこの子と遊んでてもいいじゃない。大体、何でアレスがこんなところに居るの?」
「今は、午後のティータイムだぞ。お前がなかなか来ないから、あと40分くらいしか残ってないじゃないか。」
ナンナは部屋の時計に目をやった。それは確かに2時ちょっと過ぎを表示していたが、良く見ると秒針が止まっていた。
「時計止まってるじゃないの〜っ!それじゃ、とっくにお茶の時間?やだ、ちょっとアレスってば何をもたもたしてるのよ!?」
ナンナはアレスの服から手を離すと、急いで立ち上がって裾を踏まないようにドレスのスカートを摘まみ上げてティールームへと走っていた。残されたアレスは呆然とその姿を見遣っていたが、間もなくナンナを追って行った。
「アレス、遅いわよ。あら、その子連れて来ちゃったの?」
アレスは子犬を抱えたままだった。ぬいぐるみのように大人しくしていた子犬は、気付いてもらえたことで再び動き始め、アレスの腕から飛び下りた。
「とりあえず、ミルクでもやってくれ。」
席に着きながら子犬を指差して命じたアレスの言葉に、ナンナは驚いた。
「捨てる前のせめてもの情けって訳?」
それを聞いて、リーンとデルムッドも子犬を庇うように言った。
「この子捨てちゃうの?そんなの可哀想。」
「まさか、ミルクの中に睡眠薬を入れるつもりじゃないですよね?」
3人が口々に言うのを聞いて、アレスはスッと立ち上がるとデルムッドの椅子を蹴飛ばし、そのまま自分の席に戻ると不機嫌そうにカップを手にしながらナンナに告げた。
「飼ってもいいぞ。」
突然態度を改めたアレスにナンナが耳を疑って目を瞬せていると、アレスはその後に条件をつけた。
「ただし、ナンナがちゃんと面倒をみること。」
「ええ、最初からそのつもりよ。」
ナンナが即答すると、更にアレスは条件をつけた。
「それから、俺と過ごす時間をこいつの為に割かないこと。」
「えっ?」
「俺がナンナと過ごすのを邪魔したら、即捨てる!!」
拗ねたように言うアレスに、ナンナは吹き出しそうになった。リーンも、そしてひっくり返っていたデルムッドも、必死に笑いを堪えてアレスを見ていた。

ナンナはアレスが執務に追われている間は子犬と遊び、アレスと一緒の時はその時間を大切にした。子犬の方も立場が分かっているのか、アレスが一緒の時は大人しく少し離れたところで座り込んでいたので、しだいにアレスの子犬に対する態度も和らいでいった。
そんなある日、アレスが執務室で書類と格闘していると扉の外からけたたましい鳴き声が響いた。
「やかましいっ!!」
扉を開けて怒鳴りつけたアレスに、子犬は更に鳴き続けた。
「ったく、ナンナはどうしたんだ。ちゃんと面倒見ろって言ったのに…。」
それを聞いて、子犬はアレスの靴先を引っ掻き「キュ〜ン」と鳴いた。そして、何かを訴えるようにアレスを見上げた。
「まさか…ナンナに何かあったのか!?」
「ぁうん!」
アレスの言葉を肯定するかのように鳴いた子犬に、アレスは自分をナンナの元へ案内するように促した。すると、子犬はついてこいと言わんばかりに駆け出した。 だが、急いでアレスが後に続いて廊下を走って行くと、途中でデルムッドに出くわした。
「何やってるんですか、アレス様?仕事サボって犬と遊ぶなんてダメですよ。早く書類を片付けて下さい。只でさえ書類事務苦手なのに、サボってたら…」
「説教だったら後にしろ。ナンナに何かあったかも知れないのに、書類なんか見てられるか!!」
進路妨害してくどくどと言い募ろうとするデルムッドを脇に退けてアレスは外へ飛び出すと、馬で子犬を追い掛けた。
そのまま裏の森に入り、少し駆けて行くと川に行き当たり、そしてナンナが川の中に座り込んでいた。
「何やってんだ、早く立てよ。」
馬から降りて駆け寄りながらアレスが声を掛けたがナンナは一向に立ち上がる様子を見せず、困った顔でアレスの方を見遣った。
「アレス〜、助けて。」
涙目になりながら助けを求めるナンナに、アレスがコートと上着を脱ぎ捨て川に入り膝まで水に浸かりながらナンナの元へ辿り着くと、ナンナの足が岩の間にハマっていた。アレスは岩を少し持ち上げてずらし、ナンナの足を解放するとそのままドレスに手を掛けた。
「何するのよっ!?」
怒鳴りつけてアレスを引っぱたこうとしたナンナだったが、腕が重くて持ち上がらなかった。
「何って、お前、こんなの着てたら重くて動けないだろ?」
きょとんとしたナンナに構わずアレスはドレスの腰のリボンを解き滑りの悪いファスナーを下ろすと、呆然としているナンナの身体をドレスとペチコートから抜き取った。そのまま抱きかかえて川岸に下ろすと、自分が脱ぎ捨てたコートを羽織るように言って再び川中に行き、ナンナの着衣を回収した。
アレスが戻ってくると、ナンナは懐炉代わりに子犬を抱えて震えていた。
「いったい、何でこんなことになったんだ?」
「えぇっと…。」
「そもそも、どうしてこんなドレスを着て川の中に入った?」
「だから、その…。」
靴の中の水を抜いたりシャツを絞ったりしながら問いただすアレスに、ナンナは言い難そうにポツポツと事情を話した。風に飛ばされたハンカチを追い掛けて川に入り込み、転んだはずみに岩に足が挟まり、抜け出そうともがいているうちに動けなくなったと。
「呆れた。」
「何ですって!?大変だったのよ、ちょっと動くのにもすごく力が要って。」
何とか足を抜こうと身を捻って手を伸ばそうとしてるのに、なかなか手が届かなくて、そうこうしてるうちに身体が重くだるくなって、そして泣き出しそうになった時にアレスが助けに現われたのだ。
「だから呆れてるんだ。こんなドレス着て水に浸かったら動けなくなるに決まってるだろ。」
またしても、ナンナはきょとんとしてしまった。
「貴婦人のドレスなんて只でさえ動きにくくできてる上に、こんなに大量の布が水を吸ったらめちゃくちゃ重いんだぞ。その上身体に纏わりつくし。ここみたいに浅ければ動けないだけで済むが、足がつかないところでこんなの着てたらまず助からないんだからな。」
「助からないって、じゃあ、どうすれば良いのよ?」
「さっさと脱げ。」
言われて初めて、ナンナは川から救い上げられる時にアレスにドレスを脱がされた意味を知った。 アレスはナンナの体温の回復を待って、彼女とそれから無造作に絞った彼女のドレスを乗せた馬を引いて城への道を戻って行った。
ナンナはアレスのコートに包まり、アレスは絞ったシャツを着直して上着を引っ掛けていた。馬の上からアレスを見るナンナは、服が着崩されて大きく襟元が開き濡れた髪が肌に張り付くアレスの姿に動悸が激しくなるのを堪えていた。
「どうした?冷えて、熱でも出て来たか?」
赤くなって落ち着きをなくしているナンナの額にアレスは手を伸ばしたが、特に熱さは感じられなかった。これから熱でも出るのかなぁと心配しながら、とにかく早足で馬を引いていたアレスは、そのうちナンナの視線に気がついた。ナンナは赤くなって目を反らそうとしながらもずっとアレスの首筋から胸元辺りを見つめていたのだ。
「変な奴だな。さっきは平然としてたくせに。」
シャツを絞って乾かしてた間アレスは上に何も着ていなかったのに、ナンナは普通に話をしていたし、それでいてちゃんとアレスの方を見ていた。今さら思い出して恥ずかしがるほど初心でもない。
「…詐欺だわ。」
「何が詐欺だって?」
「服着てる方が色っぽいなんて。」
いきなり詐欺だの色っぽいだの言われて訳のわからないアレスに、ナンナは手を伸ばすと無理矢理シャツのボタンを嵌めようとした。しかし、水を吸って縮んだシャツはきつくて第一ボタンが嵌まらなかった。
「こら、ひとの首を絞めるな!」
「だって、アレスのこんな色っぽい姿、他の人に見せたくないんだもん。」
争っていると、ナンナに抱えられていた子犬が馬から落ちた。
「おい、大丈夫か?」
「ぁおん♪」
何故か意志の疎通が計られているかのような両者にナンナが目を丸くしていると、アレスは嬉しそうに子犬の頭を撫でてやった。
「それにしても、今回はこいつのお手柄だったな。」
子犬も嬉しそうにその手に擦り寄る。ナンナの知らない間に、随分と仲良くなったものだ。
「よくやったぞ、リーフ。」
「リーフ?」
「似てると思わないか?」
言われてみると表情が似てるかも知れない。嬉しそうに擦り寄ってきた時や悪戯して叱られてシュンとなった時、どこかで見たような愛くるしさだと思っていたが、確かにリーフ様とそっくりだ、とナンナは思った。
「でも、呼びにくいから他の名前にしましょうよ。」
「だったら早く決めろよ。さもないと、こいつは自分の名前がリーフだと認識するぞ。」
ナンナが名前を決めるまで、アレスは子犬をリーフと呼ぶことに決めたらしかった。
「そんな意地悪言うと、この子に伯父様の名前付けちゃうわよ。」
「お前が父上を呼び捨てに出来るなら、エルトシャンって名前にしてもいいぜ。」
アレスとしては、リーフよりは呼び捨て難いが呼べないことはない。
「う〜…。」
「リーフで決まりになりそうだな。」
結局、子犬はリーフと名付けられた。そして、いつしかナンナよりもアレスに懐き、アレスの不在時にナンナを守る護衛役としてアレスから絶大な信頼を受けた。
「おいでっ、リーフ…様。」
「ぅおん?」
今日も不思議な呼び方をするお姫様に疑問符を飛ばしながら子犬は擦り寄る。その様子をアレスは笑いを堪えて見つめるのであった。

-End-

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