A shower of sleet

夜明けから降り続いていた雨は、昼過ぎに霙へと変わった。閉め切った部屋の中さえも凍るような冷たい空気が辺りを包む。
だが、アレスの心は肌で感じるよりももっと寒さを感じていた。
アレスがこんな風景を見たのは、随分と昔のことだった。
母が亡くなった日のことだ。
危篤状態に陥ったグラーニェへの処置に奔走する大人達の邪魔にならないようにと、アレスは彼女の寝室から追い出されて子供部屋で独り寂しく時を過ごした。その時も雨が霙へと変わり、アレスは冷えきった部屋の中で氷粒が窓を叩く音を聞いていた。世話をする者もなく暖を取れず、毛布と掛け布団をぐるぐると巻き付けるように被ってベッドの上で縮こまりながら…。
寒さと不安に震えながら、一体どれだけの時をそうやって過ごしたのだろう。
部屋の外から声を掛けられて恐る恐る扉を開いて、アレスは母の死を告げられた。
死に顔は見せてもらえず、そのまま密やかに葬儀が行われる様子を、アレスは虚無感に包まれながら見つめていた。強いお子だ、と周りの者達は囁きあっていたが、あまりの喪失感に泣くことも出来なかっただけである。
泣いたら母が生き返ると言うのならば、いくらでも泣きわめいたことだろう。だが、泣いてどうにかなることなどないのだと、何度も思い知らされて来た。
「……っ!」
思い返される当時の記憶を振り切ろうと、アレスは壁に拳を叩きつけた。だが一瞬途切れただけで、あの時の凍えるような思いは再び蘇ってくる。
「薪が……足りないのか?」
部屋がいつまでも寒いからこんなことを思い出してしまうのか、とアレスは暖炉に薪を追加したが、その傍にあって尚、寒さは和らぐことはなかった。
いっそのこと皆の居る所へ行こうかとも考えたが、部屋を出ようすると動きが止まる。この扉を開けたら、悪い知らせが飛び込んで来そうな気がして堪らない。
「そんなバカなことがあるか。」
そう自分に言い聞かせるが、それでも身体は言うことを聞かず、結局アレスは毛布にくるまって暖炉の前に座り込んだのだった。

突然のノックに、アレスは息を飲んだ。
間を置いての返事にそっと扉を押し開けたナンナは、振り返ったアレスの顔を見て目を丸くする。
「どうしたの、そんな顔して…。」
そんな顔、と言われてもアレスは自分が今どんな表情を浮かべているのか全く自覚がなかった。
「まるで何かに怯えているみたいよ。」
ナンナの言葉に、アレスは「バカなことを言うな」と言い返そうとしたが、声が出なかった。ただ否定するように弱々しく首を振りながら立ち上がる。
「泣いてるの?」
そっと扉を閉めて、ナンナはゆっくりとアレスの前へと歩み寄ると、その両手をアレスの頬へと伸ばした。頬を包むナンナの手から、アレスは熱が伝わってくるのを感じる。その温もりのおかげで、アレスはやっと口が自由になる。
「…泣いてなどいない。」
「だったら、何があったの?」
ナンナは心配そうに、だが諭すような響きも含んだ声音で静かに訊ねた。
「何もない。そう、今は何もあるはずが…。」
アレスは視線を反らすようにして、ポツポツと語った。語ることで、それが過去のことだと自分にも言い聞かせる。
そしてアレスは、ほぼ語り終えたところで頬に当てられた手が震えていることに気が付いた。
視線を戻してみると、ナンナが静かに泣いている。
「何故、お前が泣くんだ?」
同情や哀れみなら御免だ、とアレスは憤りを感じた。
だが、ナンナの答えはそのどちらでもなかった。
「あなたが泣いてるからよ。」
「俺が…?」
ナンナの手の上からそっと手を当てたが、アレスは涙など流してはいなかった。
泣いていないことを確かめたアレスに、ナンナは手を頬から胸元へと移して続けた。
「心がずっと泣いてるわ。でも、あなたは涙を流せないから…。だから私が涙を流すのよ。」
「俺の変わりに、お前が泣くのか?」
「そうよ。目に見える涙なら、止める方法が解るでしょう?」
どういう理屈なのか、アレスには解らなかった。だが目の前で流されるナンナの涙を止めたいという気持ちは強かった。
アレスは握りしめていた毛布の端から手を離し、ナンナを胸元へと抱き寄せた。毛布はするりと足元へ落ちたが、寒さは感じられない。
腕の中で肩を震わせるナンナの髪や背中を、アレスは静かに撫で続けた。その腕でナンナを包み込みながら、ナンナの温もりに全身が包まれていくのを感じる。
「もう、大丈夫だ。」
「…うん。」
力を緩めたアレスの腕の中から放れると、ナンナはそっと涙を拭った。それから、にっこりと笑顔を浮かべてアレスの腕に手をかける。
「それじゃ、お茶の時間にしましょう。あなたを誘いに来たのを、すっかり忘れていたわ。」
「ああ。」
ナンナに腕を取られて、アレスは部屋の外へと出た。そして空いてる方の手で後ろ手に扉を閉めながら、そっと呟く。
「サンキュー。」
「えっ?」
ナンナは足を止めて振り返る。
「何か言った?」
「いや、何でもない。」
アレスは照れくさそうに誤魔化すと、ナンナの肩を抱くようにしてフィン達の待つ部屋へと歩き出した。
そして心の中でもう一度ナンナに礼を言う。
もうあんな寒さは感じない。こうしてナンナが傍に居てくれるのだから…。

-End-

《あとがき》

久々にシリアスなアレス×ナンナです。
ずっと暖め続けて来ました。
豪華な調度と窓を叩く季節外れの霙に、幼い頃の心の傷が疼き出してしまったアレス。寒くて堪らなかったアレスの心をナンナの温もりが包み込んで温め、そして傷を癒してくれます。そんな2人をしっとりと書いてみたいなぁ、と思い続けていたものの、なかなか形には出来ませんでした。
やっと書くことが出来て嬉しいです。
こんな2人もいいなぁと思っていただけたら、幸いに存じます。

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