Memorial Day

「アレスの莫迦〜!!」
そう叫んでナンナがアレスを突き飛ばして駆け去ることなど、日常茶飯事だった。
原因は大抵、ナンナが「今日は何の日か覚えてる?」と言い出すことである。しかし、それは本人達の記念日に限られずその上年単位でもないので、およそアレスにはわからなかった。
まず嬉しそうにナンナがアレスに話し掛け、アレスから思ったような反応が返ってこないことに腹を立てたナンナと訳も分からず文句を言われてムッとしたアレスとで言い争いになり、最後はナンナがアレスを殴るか突き飛ばすかして走り去る。そんな光景は決して珍しいことではなかった。
しかし、この日だけはその後とんでもないことが起きてしまった。

いつものようにアレスを突き飛ばして駆け去ったナンナの後ろで、アレスは気を失った。あまりにもちょうどいいところに木の根っこがあり、突き飛ばされた反動で一歩引いたアレスは見事にその根っこに足を取られた。しかも張り出した枝に頭をぶつけるというおまけつきである。アレスは満足に受け身を取ることもなく倒れ、その場に沈んだ。
アレスが追いかけてこないことに気付いたナンナは不安を感じた。いつもなら、アレスは駆け去るナンナを呆然と見送った後すぐに追いかけて来る。そしてナンナの機嫌を直させようと焦った顔で真剣に言葉を紡ぐ様子に、ナンナは簡単に怒りを収めてしまう。ところが、この時は振り返ってもアレスの姿は何処にもなかった。
「どうして追いかけて来てくれないのよ!」
理不尽な怒りと共に今来た道を引き返したナンナは、先ほど言い争った場まで戻ったところで倒れ込んだアレスを発見して青ざめた。
「アレス!やだっ、しっかりして!!」
ナンナは必死にアレスを揺り起した。持ち合わせていたライブの杖を何度も掲げて呪文を唱え、倒れた時に負った傷を癒した。しかし、アレスは目を瞑ったまま動きはしなかった。
「お願い、目を覚まして〜!!」
更に激しくアレスの身体を揺するナンナの手を、フィンが掴んで止めた。
「落ち着きなさい。こんな状態にある者を無闇に動かしてはいけないことくらい、わかっているだろう。」
戦場で補助と回復を担う者として、ナンナは回復魔法以外に応急処置についても精通しているはずだった、本来、回復魔法は緊急措置なのだ。それに杖の耐久性と術者にかかる負担もあって無制限に使えるわけでもない以上、ひとまず応急処置でその場を凌ぎ、後衛に送ってゆっくり治療を受けさせるというのもよくあることだ。そのため、ナンナはこういう時の処置についてはそこら辺の騎士より詳しいはずだった。
それなのに、ナンナは泣き叫びながらアレスを揺さぶり続けた。もしもナンナの声を聞きつけたリーフが突如走り出したりしなければ、フィンがナンナを諌めることもなく、ナンナはいつまでもアレスを揺り起こそうとしていたことだろう。
「お父様、アレスが…。」
「残念だけど、生きてるよ。」
取り乱すナンナを押し退けてアレスの脈を取り呼吸を確認してそんなことを言うリーフに、フィンは少しだけ非難するような視線を向けた。
「ま、死ねばいいと思う程憎んでるつもりはないけどね。」
フィンに視線で叱られて軽く首を竦めるリーフの後ろでアレスが僅かに動いた。
「アレス!」
フィンの手を振り払ってアレスに縋り付いたナンナを見ながら、目を覚ましたアレスは呟いた。
「誰だ?」

アレスが記憶を失ったという話は瞬く間に広まった、
その後の反応は人それぞれだった、
気を遣いながらなるべく普段と同じように接しようとする者も居れば、怖がって遠ざかる者も居た。だが、この機にナンナを自分のものにしようと企むリーフよりも何よりも厄介だったのは、セリスやファバルのように面白がって嘘を吹き込む者の存在だった。
「だからぁ、それから私達は親友同士になってね…。」
「信用出来んな。」
記憶喪失と言ってもアレスは全てを忘れてしまったわけではなく、解放軍に参加する少し前くらいまでの記憶は残っていた。そのため、傭兵として戦場で戦っていたはずが目を覚ましたら全然知らない人々に囲まれていて、周りの人間からは継承付きで呼ばれていることに戸惑った。しかし、そんなアレスを気遣いながら事情を説明してくれたフィンとセティを信用し、唯一知り合いだったリーンからも説明を受けてひとまず今の自分の立場を頭では理解した。
その結果セリスに対する誤解も再び解けたが、記憶に残ってなくても間隔まで鈍る訳ではないらしい。セリスが嘘の記憶を吹き込もうとしてもアレスの心の中で「こいつは油断ならない」と警鐘が鳴っていた。
だが、セリス達が吹き込もうとするのはそういう見え透いた嘘ばかりとは限らなかった。「この前は自分が奢ったから、今度はお前が奢ってくれ」とか「何度も助けてやった貸しが貯まってる」とか…。そのためセティはセリスを、パティはファバルをそれぞれ監視する羽目になってしまった。
「早く記憶を取り戻して下さいね。」
「あ?ああ、悪いな。只でさえ忙しいのに…。」
とかくセリスを見張るセティの苦労は並大抵のものではなかった。悪意のないファバルと違ってセリスは普段以上にアレスをからかうことに燃えているし、質も悪い。セティはティニーと会う時間を犠牲にしてもまだ時間が足りず、アルテナやコープルに協力を頼んでどうにかセリスの悪ふざけを阻止する毎日だった。
「あなたが悪いわけじゃないのはわかってるんですけどね。早く思い出してあげないと、ナンナさんが可哀そうですよ。」
「あの、俺を突き飛ばしたって言う女か?」
アレスは自分が記憶を失った原因が、ナンナに突き飛ばされて頭を打ったからだと加害者本人の口から聞かされた。その後も、会うと辛そうな顔で自分を見るところから、かなり責任を感じているのだろう。普段の様子からして責任感の強いタイプのようだから当然かと漠然と思っていたが、何かそれだけではないような気がして引っ掛かりを感じていた。

心の休まる場所を求めて彷徨っているうちに、アレスはいつの間にか城の裏の川のほとりに来ていた。何となく川の方を向いてボ〜っとしていると、心が和む気がした。しばらくそのまま座り込んでいると、その背後にそっと息を潜めて忍び寄る影があった。
その影は握りしめた薪を振り上げると、そのまま動かなくなった。
それから、どれだけの時間が過ぎたことだろう。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
薪を構えたまま硬直しているナンナに、アレスは呆れたように振り返った。
「それで俺の頭を殴るつもりだったんじゃないのか?」
頭を打って記憶喪失になったならもう一度同じような衝撃を加えれば元に戻るかも知れないなどという話はよく聞く。もっとも、だからと言って大人しく殴られてやるつもりなどさらさらないが…。
唇を固く引き結んで小刻みに震えるナンナの手から薪を奪って捨てると、アレスはそのままナンナの腕を掴んで引き寄せた。
「何を泣く?」
アレスは涙をいっぱいに溜めたナンナの顔を覗き込んだ。
「そこまで責任を感じることはない。あれは、はずみだったのだろう?」
自分でも驚くような優しい言葉を掛けたアレスを、ナンナはキッと睨み付けた。
「責任なんかじゃないわ!」
「何故怒る?」
辛そうに涙を浮かべていたかと思ったら、いきなり怒り出すナンナにアレスは困惑した。
「許さない…。」
「???」
「このまま忘れたままでいるなんて許さない!」
加害者の勝手な言い種に、アレスはムッとした。誰の所為でこんなことになったのかと責めたくなってきた。しかし、それに続くナンナの言葉に怒りは何処かへ行ってしまった。
「こんなに夢中にさせておいて、こんなにあなたのこと好きにさせておいて、それを忘れているなんて…。」
せめて自分のことだけでも思い出して欲しいと泣くナンナに、アレスの心は乱された。
「泣くな。」
どうしていいかわからなくなって、アレスはとりあえずナンナを抱き寄せてその髪をそっと撫でた。しかし、それだけだ。普段と違って、それ以上のことはしない。
「アレスの…莫迦〜!!」
ナンナはアレスを思いっきり突き飛ばし、そのまま走り去ろうとした。しかし、その直後のアレスの様子にナンナはその場に踏みとどまった。
突き飛ばされてよろめいた後、体勢を立て直したアレスは頭を押さえて呻いていた。
「アレス!?」
あわてて駆け寄ったナンナに支えられながらアレスはゆっくりと崩れ落ちると、そのままナンナの腕を強く握った。
遠慮のない力で腕を掴まれてナンナは悲鳴を上げかけたが、苦しむアレスの様子に懸命に堪えてその肩を支えた。
「しっかりして!」
ナンナの悲痛な叫びを聞きながら。アレスは昏倒した。
そのままナンナはアレスの頭を抱え込むようにして彼の身体を横たえさせた。足を前に投げ出し座り込むと、ナンナはアレスが目覚めるまでアレスの頭を太腿の上に乗せて髪を撫でていた。

最初は苦し気な表情をしていたアレスの寝顔がだんだん安らかになるにつれて、ナンナの心も少しずつ軽くなっていった、そしてその顔を覗き込もうとした時、突如その手にアレスの手が伸びた。
「戻ってきたのか。」
「えっ?」
ナンナの不思議そうな顔を見ながら起き上ったアレスは、周りを見回して驚いた。
「何処だ、ここは?」
城の中庭近くの木立でナンナと言い争っていたはずが、今居る場所はまったく違っていた。
「思い出したの?」
「はぁ〜?思い出せる訳ないだろ、今日が何の日かなんて…。」
その返事に、ナンナは嬉しさのあまりアレスに抱きついた。
「・・・ナンナ?」
しがみついて泣き続けるナンナをアレスは困惑しながら優しく包み込むように抱き締めた。そして次第に泣き止みながら途切れ途切れに事情を話すナンナに、アレスはそんなことがあったような気もするなぁと他人事のように考えていた。
「それで、結局何の日だったんだ?」
ナンナが落ち着くのを待って聞いたアレスにナンナがちょっと不満顔で言った答えは、アレスを呆れさせた。
「アレスが剣の稽古をつけてくれてから百日目。」
「そんなのわかるかぁ〜!?」
大体その百日目ってのは何なんだ、と呆れ返るアレスにナンナは拳を握り締めて言い返した。
「だって、これでやっと前線に出られるのよ。ずっと楽しみにしてたんだから。」
初めて剣の稽古をつけた後、前線に出たがるナンナに「百年早い」と言って猛反発されたアレスは、宥めるうちに「百日早い」に訂正させられた。それから百日。ナンナはその日が来るのを指折り数えていた。
「そんなに前線に出たいのか?」
「だって、これで戦場でもあなたの近くに居られるのよ。」
これにはアレスも返す言葉がなかった。もう、いつものように降参するしかない。
毎回くだらないと思える記念日のことでナンナに怒鳴られながらも、結局最後には負けてしまう。フィンやラケシスに関する記念日も「だから、あなたと出会うことが出来たの」と言われてしまっては全面降伏せざるを得ない。
「いいぜ、一緒に来いよ。絶対に俺が守ってやるから。」
そう言いながら、きっと自分もナンナの存在に守られるんだろうと苦笑するアレスに、ナンナはちょっと不思議そうにしながらも嬉しそうに頷いた。
そんなナンナの髪に手を入れながら、今度はアレスが普段ナンナのしている質問を口に乗せた。
「ところでお前、今日が何の日がわかるか?」
「今日?」
何かあったかしらと左手の人差し指を唇にあててナンナは考え込んだ。悩むナンナの様子を楽しそうに見つめながら、アレスはナンナの髪を弄び軽くかき上げると、涼し気になった耳元に口を寄せた。
「俺とお前の再出発の日だ」
そっと囁かれた声に耳元まで真っ赤になりながら、ナンナはこの日を心のカレンダーにしっかりと書き留めたのだった。

-了-

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